二人の愛は、もう遠い過去になった

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二人の愛は、もう遠い過去になった

GoodNovel new 完結

誰もが知っていた。 私、高梨詩乃(たかなし しの)はかつて、城戸恭平(きど きょうへい)を救うために命を落としかけた。恭平もそれ以来、私を何より大切にし、誰もが羨むほど盛大な結婚式を挙げると約束してくれた。 ところが結婚式の3日前、私は彼と友人の会話を聞いてしまった。 「本当に秘書と新婚旅行へ行くために、式を延期するつもりなのか?詩乃さんにバレるのが怖くないのか?」 「詩乃は大ざっぱだし、俺に惚れきってる。適当に言っておけば、疑いもしないよ」 けれど彼は忘れていたらしい。 私は大ざっぱなだけでなく、一度決めたらてこでも動かない。 愛せない相手と一緒にいるつもりはなかった。 そこで、彼が秘書を連れて出張している間に名前を変え、パスポートや連絡先もすべて一新し、浜辺には靴だけを残した。 後になって聞いた話では、恭平は正気を失い、何度も海へ飛び込んでは、いなくなった花嫁を捜し続けたという。

チャプター (1)

第1章

誰もが知っていた。 私、高梨詩乃(たかなし しの)はかつて、城戸恭平(きど きょうへい)を救うために命を落としかけた。恭平もそれ以来、私を何より大切にし、誰もが羨むほど盛大な結婚式を挙げると約束してくれた。 ところが結婚式の3日前、私は彼と友人の会話を聞いてしまった。 「本当に秘書と新婚旅行へ行くために、式を延期するつもりなのか?詩乃さんにバレるのが怖くないのか?」 「詩乃は大ざっぱだし、俺に惚れきってる。適当に言っておけば、疑いもしないよ」 けれど彼は忘れていたらしい。 私は大ざっぱなだけでなく、一度決めたらてこでも動かない。 愛せない相手と一緒にいるつもりはなかった。 そこで、彼が秘書を連れて出張している間に名前を変え、パスポートや連絡先もすべて一新し、浜辺には靴だけを残した。 後になって聞いた話では、恭平は正気を失い、何度も海へ飛び込んでは、いなくなった花嫁を捜し続けたという。 第1話 「こんにちは。名の変更届を提出したいのですが」 職員は私を見るなり目を輝かせた。すぐに私が高梨詩乃だと気づいたらしい。 「家庭裁判所の許可審判書はお持ちですか?」 私は迷わずうなずき、用意していた書類を差し出した。 「では、こちらの名の変更届に必要事項をご記入ください。届出が受理された後は、マイナンバーカードや携帯電話の契約、銀行口座、パスポートなども氏名変更の手続きが必要になります」 窓口の脇で名の変更届を書いていると、周囲からひそひそと話す声が聞こえてきた。 「本当に城戸社長の奥さんだ。テレビで見るよりずっと痩せてる」 「半月前の海辺でのプロポーズ、ものすごく話題になったよね。まさか本人に会えるなんて。早く写真を撮って」 「私がいちばん長く推してるカップルなの。8年前、重体だった城戸社長を救うために高梨さんが輸血して、意識を失ったんだって。それで城戸社長は、彼女を目覚めさせるために病院へ医療機器を寄贈したり、基金を設立したりしたらしいよ」 「高梨さんが目を覚ましたときには、20億円分の商品券を配ったって聞いた。それだけじゃなくて、新しく発見された銀河の命名権まで大金で買って、『SHINO』と名づけたんでしょ。高梨さんが星を見るのが好きだからって」 「城戸社長は派手にアプローチを続けて、二人はもう8年も一緒にいるんだよね。カメラの前に出るたび、本当に幸せそうだった」 「どう見てもお似合いだもの。あの二人の間には、誰も入り込めないよね」 私は自嘲するように、苦く笑った。 何がお似合いなものか。 恭平が秘書の森下彩香(もりした あやか)と関係を持つようになった時点で、私たちはもう心の通じ合う二人ではなくなっていた。 半月前、恭平にプロポーズされ、婚姻届を出したその夜、彩香から一枚の写真が送られてきた。 写真の中で、彼女は誰かの胸に身を寄せていた。二人が親密な関係であることは一目瞭然だった。 【私と喧嘩さえしなければ、あなたと結婚して私に当てつけることもなかったのに】 そのときは意味が分からず、送り先を間違えたのだと思った。 けれど、彩香から送られてくる写真は次第に増え、そこに写る男の顔もはっきりしていった。 それは、結婚したばかりの夫だった。 【あのプロポーズは、もともと私のために用意されたものよ。あなたはそのおこぼれにあずかっただけ】 【見てなさい。彼はすぐに私のところへ戻ってくるから】 ぽたりと涙が紙の上に落ち、文字がにじんだことで、私はようやく我に返った。 名の変更届を提出すると、職員が記載内容をもう一度確認した。 「高梨詩乃から高梨星奈(たかなし せな)への変更で、お間違いありませんか?」 私はうなずいた。 星のように、誰にも頼らず、自分の光で輝く。そんな願いを込めた名前だった。 これからは過去を捨て、身を隠して生きていく。それでも必ず、自分の光を放つ人生を歩んでみせる。 その後、私は旅券窓口へ向かい、新しい名前でパスポートを申請した。 「交付は2週間後の予定です。受け取りには必ずご本人がお越しください」 私は迷わずうなずいた。 帰宅する途中、スマホを見ていると、人気俳優が女性アイドルにプロポーズしたというニュースが流れてきた。 コメント欄は祝福一色だろうと思ったが、実際には恭平と比べる声ばかりだった。 【あの人にはかなわないね】 【やっぱり詩乃ちゃんはいい人と結婚したよね。プロポーズなら城戸社長にはかなわない】 【今でも海辺を彩った盛大な花火を覚えてる。あの演出、城戸社長が2か月かけて勉強して、自分で考えたらしいよ】 第2話 【花火だけじゃないよ。ドローンで描いた銀河に、街中の大型ビジョンを使った告白、空を埋め尽くすバラの花びら、それに最高級の10カラットダイヤモンド】 【半月後の結婚式では、どんなサプライズが待ってるんだろう。今から楽しみすぎる!】 けれど、心変わりした男に何を期待するというのだろう。 家に帰ると、珍しく恭平がいた。 私を見るなり、待ちかねていたようについてきた。 「詩乃、珍しいものを手に入れたんだ」 手品でもするように、彼の手のひらにルビーのペンダントが現れた。 深紅の輝きは美しかったが、石の端に黒い内包物が筋のように走っているのが惜しかった。 私が眉をひそめると、恭平は慌てて説明した。 「詩乃、これはめったに採れない天然のルビーなんだ。この黒い筋も、石の個性を生かすために、あえて残したらしい。『どんな闇の中でも消えない、永遠の愛』を表してるんだって」 彼はどこまでも優しく、まるで私しか目に入っていないように見えた。 けれど、襟元についた口紅の跡だけが、ひどく目についた。 私は喜んだふりをして、ペンダントを受け取った。 恭平はすぐに謝り、会社で用事ができたから、もう一度出かけなければならないと言った。それでも夕食までには帰るつもりらしい。 私はそっけなく「分かった」と答えた。 ところが、彼が出ていってから30分もたたないうちに、秘書の彩香がSNSに別のルビーのペンダントを投稿した。 美しいカットが施された上質な品で、石には黒い内包物ひとつなく、鮮やかな深紅の輝きを放っていた。 そこには、こんな文章が添えられていた。 【もともとは二つあったんだけど、もう一つは質がよくないからって、こっちを選んでくれたの。身につけるなら、少しでもいいものじゃないとね。今はもう、私一人の体じゃないから】 頭を殴られたような衝撃を受け、しばらく何も考えられなかった。 二人の間には、すでに子どもまでいたのだ。 恭平にとって私は、彩香がいらないと判断したものを与えておけばいい存在だったらしい。 ぼんやりしていて足首をひねった拍子に、恭平から初めて贈られたハイヒールのヒールが折れた。 しばらくして、私は涙を拭い、その靴を捨てた。 そして、半月後にC国へ向かう航空券を予約した。 …… 深夜、恭平からメッセージが届いた。 仕事で深刻な問題が起きたため、今夜は帰れないという。 けれど本当は、ずっと彩香のそばにいるのだと分かっていた。 私はスマホを開き、自分名義で登録していたサービスを一つずつ解約した。 恭平から贈られた宝石類もすべてまとめ、オークション会社に連絡した。 電話を切った直後、彩香からDMが届いた。 【あなたたちが結婚していても、彼が大切にしているのは私とこの子よ】 送られてきた動画には、つわりで青ざめた彩香と、まだ膨らんでもいない彼女のお腹に親しげに耳を当てる恭平が映っていた。 「いい子だから、ママを困らせるなよ。生まれてきたら、パパがお仕置きするぞ」 彩香はおかしそうに彼を見た。 「まだこんなに小さいのに、分かるわけないでしょ?」 恭平は彩香を抱き寄せた。 「俺の子なんだから、当然分かる。大変だったな」 彩香は「大したことない」と言いながらも、目に涙を浮かべた。 「こんなにいい子なのに、私と一緒に隠されたまま、何の立場も与えてもらえないのね」 恭平の顔が曇った。 「子どもは当然、城戸家の子として引き取る。いい子にして、俺の言うことを聞いていれば、詩乃が持っているものは、お前にも同じように与える。逆らったらどうなるか、分かってるな」 私は心の中で冷笑した。 ほかの女との間に子どもまでつくっておきながら、今さら何が一途な愛だ。 動画を閉じると、ふつふつと怒りが込み上げてきた。 悪いのは彼女のほうなのに、どうしてあれほど堂々としていられるのだろう。 私はすぐに言い返した。 【あなたが産んだ子だって、いずれ私を母親と呼ぶことになるのに、何がそんなに嬉しいの?】 彩香は腹を立てたのか、しばらく返事をしなかった。 ところが少しすると、通知が鳴りやまないほど次々とメッセージが届き、二人の親密な姿を収めた大量の写真や動画が送られてきた。 車内、オフィス、部屋、芝生の上、さらには私たちの寝室で撮られたものまであった。 あまりの気持ち悪さに、私はその場で吐いた。 そのまま自分の荷物をゲストルームへ移した。 翌日、恭平から城戸家の食事会に来るよう連絡があった。 自分は仕事で忙しいため、夜になったら一人で本邸へ来てほしいという。 約束より1時間早く車で本邸に着くと、恭平が彩香を支えながら車から降ろしているところだった。 私に気づくなり、彼は慌てて手を離し、こちらへ歩み寄って説明した。 第3話 「秘書が具合を悪くしたから、手を貸したんだ。急ぎの書類を取りに、俺についてきただけだから」 表情こそ平静を装っていたが、後ろめたさまでは隠しきれていなかった。 私は気にしていないように笑った。 「私は何も言ってないでしょ。そんなに慌てなくても、ちゃんと信じてるから」 二人が背後で言い争うのも構わず、私はそのまま屋敷へ入った。 「恭平さん、本邸を見せてくれるって言ったじゃない」 「詩乃が予定より早く来たんだ。今、お前を連れて入るわけにはいかない」 恭平は運転手に命じて、彩香を送り帰した。 そして自分も屋敷へ入ってきた。 ところが食事が始まる頃になると、恭平の母が彩香を連れて現れた。 「この子は恭平の秘書なの。もう6年も恭平のそばで働いてくれているのよ」 恭平の母は誇らしげに彩香を家族へ紹介し、「そばで」と口にしたときには、わざわざ私へ視線を向けた。 恭平の表情が険しくなった。 「母さん、秘書を身内の食事会に同席させる必要はない。外へ出してくれ」 恭平の母はたちまち腹を立てた。 「秘書だから何なの?人を職業で見下すようなことを、いつ私が教えたのよ」 恭平は目を険しくし、二人をにらみつけた。その声には明らかな警告が込められていた。 「残るなら黙って食事をしろ。みっともないことは言うな」 それを聞いた彩香は目を赤くし、今にも泣きだしそうになった。 食卓では、普段は厳しい恭平の母が何度も彩香に料理を取り分け、機嫌を取っていた。 私の存在など、まるで目に入っていないようだった。 一方、隣に座る恭平は二人の態度を見て見ぬふりをし、私の世話ばかり焼いていた。 それでも彩香が料理を褒めるたび、無意識に彼女へ目を向けていた。 針のむしろに座らされているようで、何を食べても味がしなかった。 席を立とうとしたとき、彩香が突然えずいた。 恭平は魚料理を運んできた使用人に、すぐ離れるよう命じた。 そして慣れた手つきで、彩香の背中を軽くさすった。 その場にいた者たちは顔を見合わせ、面白がるような目を私へ向けた。 恭平は気まずそうに手を下ろすと、私に説明した。 「実は、彩香が妊娠しているのは俺の友達の子なんだ。そいつに頼まれているから、気にかけていただけだ」 私は無表情のままだった。 その言い訳を信じていないことは、誰の目にも明らかだった。 恭平の母は満面の笑みを浮かべ、妊娠はめでたいことだと何度も口にした。彩香を見る目も、先ほどまで以上に優しくなっていた。 恭平は私の手を強く握って軽く揺すり、子犬のように機嫌を取ろうとした。 私は適当な理由をつけて席を外したが、恭平はぴったりついてきて、しつこく説明を続けた。 「詩乃、怒るなよ。彩香が前にオフィスで吐いて、それで妊娠を知ったんだ」 あまりにも白々しくて、思わず笑ってしまった。 「それで、父親はあなたのどの友達なの?」 恭平はためらいもせず、嘘をついた。 「田中家の息子だ。街の東側でネット通販をやってる家の。家族に反対されて、取引を条件に彩香の面倒を俺に押しつけてきたんだ。俺も仕方なく、少し気にかけているだけだよ。怒るなって。嫌なら、あいつのところへ送り返すから」 けれど、街の東側でネット通販を手がけているのは近藤家だった。 恭平は、私が大ざっぱで、城戸家を取り巻く複雑な人間関係など知らないと思っていたのだろう。 だが、彼と結婚するつもりだった私が、何も知らずにいられるはずがなかった。 恭平がまだ隣で私をなだめていると、使用人が慌てて呼びに来た。 「恭平様、彩香さんがひどくお腹を痛がっています。すぐに来てほしいと……」 恭平は厳しい声で拒んだ。 「どうして俺を呼ぶんだ。俺は医者じゃない。具合が悪いなら、運転手に病院まで送らせろ」 そう言いながらも、眉間に刻まれたしわは消えなかった。 しばらくして、恭平はスマホに届いたメッセージを確認すると、会社で用事ができたから先に帰ると言い、私も一緒に帰るかと尋ねた。 私は首を横に振った。 画面に表示された彩香からのメッセージが目に入ったからだ。 【赤ちゃんも私も、あなたに会いたい】 恭平が慌ただしく立ち去ったあと、私は部屋の隅に座り、眉間を軽く押さえた。 すると、使用人たちの話し声が聞こえてきた。 「詩乃様も、お人よしにもほどがあるわ。妊娠した愛人が目の前まで乗り込んできたのに、まだ気づいていないなんて」 第4話 「そうよ。詩乃様が恭平様の命の恩人じゃなかったら、城戸家の嫁になれたはずないもの」 「でも、気の毒ではあるわよね。恭平様を助けたせいで体を悪くしたのに、今度はこんな仕打ちをされて」 「あれだけの立場にいる男で、女遊びひとつしない人なんて何人いると思う?」 私は自嘲するように口元をゆがめた。 誰の目にも分かることだった。 それなのに恭平だけは、まだ私をだませると思っている。 彼にとって私は、どこまでいっても救いようのない愚か者なのだろう。 私が軽く咳払いすると、話し声はぴたりとやんだ。 それでも姿は見せず、そのまま車で帰宅した。 途中で弁護士に連絡し、離婚協議書の作成を依頼した。 恭平が帰ってきたのは、午前1時だった。 手には数え切れないピンクのバラと、ダイヤモンドをちりばめたハイヒールを抱えていた。 以前と変わらず、私の好みも欲しいものも覚えていた。 けれど、もう嬉しいとは思えなかった。ただ後ろめたいだけなのだろう。 案の定、恭平はすぐに切り出した。 「詩乃、結婚式を1週間だけ延期してもいいか?」 私が眉をひそめると、彼は慌てて説明した。 「海外の取引先で問題が起きて、俺が現地へ行かなきゃならなくなったんだ。それがちょうど結婚式の日と重なってしまって」 恭平は申し訳なさそうに私を見つめていた。 私が怒りだしたら、すぐになだめるつもりなのだろう。 けれど私は平静な顔で、「いいよ」と答えた。 驚いた様子も見せなかった。 恭平は戸惑った。 「どうして、そんなにあっさり受け入れたんだ?」 「じゃあ、怒って騒げばいいの?付き合い始めたとき、何でも話し合って、お互いに隠し事はしないって約束したでしょ。 今だって、ちゃんと話し合って決めた結果じゃない。 それに、あなたは結婚式にこだわりすぎていたし、準備期間も短かったから、スタッフたちはとっくに悲鳴を上げてたよ」 「隠し事」という言葉を聞いた瞬間、恭平の目がわずかに陰った。 それでも沈んだ声で、申し訳なさそうに言った。 「詩乃、本当に仕事が忙しいだけなんだ。出張から戻ったら、必ずゆっくり一緒に過ごすから」 私は心の中で冷笑した。 好きなだけ演じていればいい。 その頃には、私はもうここにはいない。 まだ私の機嫌が直っていないと思ったのか、恭平はプラネタリウムへ「SHINO」を見に行こうと誘ってきた。 彼が私への愛を示すために名づけた、あの銀河だった。 私は首を横に振った。 「それより、海を見に行かない?少し気分転換したいの」 高梨詩乃の死を見届けることになる、あの海へ。 恭平の目に複雑な感情が浮かんだ。 後ろめたさ、意外そうな色、戸惑い。それに、私には読み取れない何かも混じっていた。 翌日の午後に行く約束をしたが、3時間待っても恭平は現れなかった。 荒い波が打ち寄せる海を見つめながら、私は声に出さずにつぶやいた。 あと数日だけ耐えればいい。 もうすぐ、すべて終わる。 スマホの通知音で現実に引き戻された。 彩香からメッセージが届いていた。 【結婚式が延期になっただけだと思ってるの?私がいる限り、式なんて永遠に挙げられないわ】 【結婚式の日、あなたの新郎は私を連れて海外へ新婚旅行に行くのよ】 【あなたたちが入籍していたって関係ない。私が呼べば、彼は何を置いてもすぐに駆けつけてくれる】 【悪いことは言わないから、おとなしく身を引いたほうがいいわよ。最後には一文無しで追い出されて、何もかも失うことになるから】 私は冷笑した。 くだらない。勝手に騒いでいればいい。 私と恭平は法律上の夫婦だった。 どれほど揉めたところで、私が同意しない限り、財産を一切受け取れないまま一方的に離婚させられることはない。 結婚式の前日、恭平は埋め合わせのつもりなのか、私をバーへ連れていった。 もともと予定していた結婚式前のパーティーに参加するためだった。 個室には、普段はだらしない恭平の友達たちが、それなりに着飾って集まっていた。 けれど私がいるせいで、誰も羽目を外せずにいた。 私はそのまま踵を返し、ダンスフロアへ向かった。 恭平も私を守るように、すぐそばを離れなかった。 音楽とその場の空気にあおられるまま、私は我を忘れて踊った。 笑いながら、同時に涙を流していた。 やがて力が抜け、恭平の胸に倒れ込んだ。 彼は心配そうに私の顔をのぞき込んだ。 「詩乃、大丈夫か?」 私は何でもないように涙を拭った。 「大丈夫。これからは、もっとよくなるから」 第5話 恭平は、私が思いきり踊って気持ちを発散できたと思ったらしい。 ほっとした顔で、私を個室へ連れ戻した。 席に着いてからも、恭平は何かと私の世話を焼いた。 私が浮かない顔をしていると、冗談を言うなどして、どうにか機嫌を直そうとした。 そのとき、淡いピンクのマタニティドレスを着た彩香が、突然個室へ入ってきた。 「皆さん、ごめんなさい。私の彼を見ませんでしたか?」 恭平は表情を凍らせ、彩香を鋭くにらみつけた。 周囲の者たちはあっけに取られ、何か騒ぎが起きるのを期待するように、私たち三人を見比べていた。 彩香は恭平の視線など気にも留めず、勝手に話し続けた。 「彼ったら本当に自由すぎるの。私が妊娠してるのに、そばで面倒も見てくれないで、ほかの女の子を連れて遊びに来るなんて!」 誰かが恋人を隠しているとでもいうように、彩香は室内を見回した。 やがて、その甘えたような視線が恭平に止まった。 けれど恭平は、警告を込めた目で彼女をにらみ返すだけだった。 私は気にも留めず、何げなく尋ねた。 「あなたの彼って、街の東側で通販会社を経営している田中社長でしょ?そんなに遊び歩く人なの?」 恭平の顔に緊張が走った。 彼は友達たちに目配せし、彩香を外へ連れ出させようとした。 ところが彩香は質問に答えず、私の隣へ腰を下ろした。 そして目を赤くしながら、恋人が自分を大切にしてくれないと訴え始めた。 私は不快感を隠さずに席をずらし、彼女から距離を取った。 「彼に不満があるなら、別れればいいでしょ。子どものことだって、まだ妊娠初期なんだから、手術を受ければ済む話じゃない」 すると彩香は逆に声を荒らげ、まるで私が悪いかのように責め立てた。 「詩乃さん、どうしてそんなひどいことが言えるんですか?この子だって一つの命なんですよ!そんなに離れるなんて、私のにおいが気になるんですか?妊婦は汚いとでも思ってるんですか?」 あきれて恭平を見ると、彼は複雑な表情で私を見つめていた。 しばらくして、恭平は彩香を部屋の隅の席へ移らせた。 その後は友達たちの前で、私と仲睦まじい夫婦を演じ始めた。 心にもない芝居を見ていたくなかった私は、化粧室へ行くと言って個室を出た。 バーの入口まで行くと、彩香が追いかけてきた。 口を開くなり、私を恥知らずと罵り、自分たち一家の幸せを壊したのは私だと言い出した。 私は呆れて目をそらし、彼女など見えないかのように横を通り過ぎた。 そのままタクシーを拾い、家へ帰った。 帰宅すると、旅券窓口から電話がかかってきた。 「新しいパスポートをお渡しする準備が整いました。ただ、明日は窓口が休みですので、来週月曜日以降に受け取りにお越しください」 突然、背後から恭平の声がした。 「パスポート?どうして急に作り直したんだ?」 私は動揺を押し隠し、平静を装って答えた。 「有効期限が近かったから、更新しただけ」 恭平は何げない口調で尋ねた。 「どうして一人で帰ったんだ?俺に一言くらい言えばよかっただろ」 気持ちを落ち着かせてから、私は答えた。 「疲れたの。あなたたちの邪魔をしたくなかったから」 これ以上話すつもりはなく、そのままゲストルームへ向かった。 けれど恭平は、しつこく追いかけてきた。 「詩乃、どうしてゲストルームに荷物を移したんだ?最近ずっと俺に冷たいよな。俺のことは、もういらないのか?」 その声は悲しみに満ちていた。 まるで、この関係を裏切ったのが私であるかのようだった。 私は怒りをこらえ、仕方なく弱ったふりをした。 「寝室は広すぎて、一人でいると怖いの。最近、私たちの間では嫌なことばかり起きてるでしょ。あなたの家族には認めてもらえないし、結婚式まで延期になった。 家にいると、どうしてもいろいろ考えてしまうの。あなたがいなかったら、私がここにいる意味なんてあるのかなって」 すべて嘘のつもりだった。 けれど、胸にたまっていた悔しさまであふれ出し、涙が止まらなくなった。 恭平は胸を痛めたように私を抱きしめた。 「詩乃、ごめん。最近は仕事が忙しくて、君の気持ちを考えてやれなかった」 私の涙を拭いながら、何度も言い聞かせるように続けた。 「意味がないわけないだろ。詩乃は俺の命なんだ。詩乃がいなかったら、俺はとっくに死んでいた」 第6話 「結婚式は予定どおり挙げよう。出張には行かない。あんな取引、どうなっても構わない。会社が大損して、違約金まで払うことになってもいい。だから、そばにいさせてくれないか?」 彼の目に浮かぶ打算を見て、私は仕方なく首を横に振った。 「もういいよ。会社はあなただけのものじゃないでしょ。何百人、何千人もの社員はどうなるの?」 恭平は、私がそう答えると分かっていたようだった。 そのまま優しい声で言い聞かせた。 「出張から戻ったら、必ず盛大な式を挙げよう。これからは、詩乃が何をしたいと言っても、俺が全力で応援する」 私は感動したふりをして、あくびをした。 恭平はゲストルームで一緒に寝ようとしたが、早朝の飛行機に乗る支度で起こされたくないと言って、部屋から追い出した。 翌朝、彼は足音を忍ばせてゲストルームへ入ってくると、私の額にキスをして別れを告げた。 私は眠っているふりをして、何も気づかないままでいた。 恭平が出ていったあと、時間を確認しようとスマホを開くと、SNSのアカウントに数え切れないほどのDMが届いていた。 どれも、結婚を祝福する内容だった。 式場の前には多くの報道陣が集まり、世界一の結婚式と呼ばれる瞬間を撮影しようと、ライブ配信の準備をしていた。 朝早くから配信を待ち続け、私たちに祝福を届けようとしている人も大勢いた。 私は口元をゆがめ、苦く笑った。 その30分後、結婚式延期の知らせがネット上を駆け巡った。 恭平が自ら発表したのだ。 準備上の都合により、結婚式を1週間延期するという内容だった。 大勢の人が私のコメント欄へ押しかけ、慰めの言葉を残した。 半分は恭平の事情を理解してあげるように言い、残りの半分は私に同情していた。 私は何も答えず、別アカウントを一つだけ残して、すべてのSNSアカウントをひっそりと削除した。 その後、ネット上でどれほど大きな騒ぎになったのかも、もう気にならなかった。 それからの2日間で、私は多くのことを片づけた。 恭平から贈られた高価な品々を、「SHINO」の命名権も含めてすべてオークションに出した。 彼が手作りした陶器のビーズ細工は、すべて叩き割った。 贈られたピンクのバラは、ゴミ箱へ捨てた。 結婚写真から自分の顔を切り取り、代わりに彩香の写真を貼った。 彩香から送られてきた挑発的な写真や動画、メッセージの履歴は、別アカウントから決めた時刻に投稿されるよう設定した。 邸宅の使用人たちにも全員辞めてもらい、十分な退職金を渡した。 ただ、私が品物をオークションに出したときの写真がネットへ流出していたことは知らなかった。 一時は、私たちの破局を疑う声で持ちきりになった。 海外にいた恭平から十数回も電話がかかってきて、ようやく私は応答した。 「詩乃、宝石をオークションに出した写真を見た。急に金が必要になったのか?」 私は、プロポーズも結婚式もあまりに豪華すぎて、人から妬まれそうで不安になったため、売却したお金を寄付して心を落ち着かせたかったのだと説明した。 電話の向こうから、安心したような笑い声が聞こえた。 「詩乃は本当に優しいな。残っている宝石はもう売らなくていい。寄付する金なら、俺が振り込むから」 数分後、私の口座に4億円が振り込まれた。 私はその全額を、そのまま寄付した。 月曜日、壊したプレゼントと離婚協議書を、リビングに置いた大きな箱へ詰めた。 新しいパスポートを受け取ると、古い携帯回線を解約し、新しいスマホと回線を契約した。 航空券に登録していたパスポート情報も、新しいものに変更した。 私は車で海へ向かい、砂浜に古いスマホとダイヤモンドをちりばめたハイヒールを残した。 そして、ゆっくりと海の中へ歩いていった。 これで、この世から高梨詩乃は消えた。 残ったのは、高梨星奈だけだった。 5日後、恭平は土産を抱え、上機嫌で帰宅した。 慌ただしく靴を脱いで邸宅へ入るなり、声を上げた。 「詩乃、来てくれ。いいものを買ってきたんだ」 けれど、邸宅の中は静まり返っていた。 恭平は言葉を失い、その場に立ち尽くした。

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