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愛情値は満点でも、心はもう戻らない
「攻略者様、北条京平(ほうじょう きょうへい)様のあなたへの好感度は依然として100パーセントのままです。それでも本当にこの世界から離脱なさいますか?」 北条英理(ほうじょう えり)の胸の奥に、じわりと苦いものが広がる。それでも彼女は、迷うことなく静かに頷いた。 「……ええ、決めたわ」 「承知いたしました。離脱ゲートは15日後に開放されます」 システムの声がふっと途絶え、部屋は再び静寂に包まれた。 英理の視線は、目の前のテーブルにぽつんと置かれたケーキへと落ちる。好感度100パーセント。そんな言葉が、頭の中を何度も駆け巡って離れない。 本来であれば、この上ない幸福をかみしめるべき言葉のはずだ。しかし今の英理にとって、これほど皮肉に響く言葉はほかに存在しなかった。
チャプター (1)
第1章
「攻略者様、北条京平(ほうじょう きょうへい)様のあなたへの好感度は依然として100パーセントのままです。それでも本当にこの世界から離脱なさいますか?」
北条英理(ほうじょう えり)の胸の奥に、じわりと苦いものが広がる。それでも彼女は、迷うことなく静かに頷いた。
「……ええ、決めたわ」
「承知いたしました。離脱ゲートは15日後に開放されます」
システムの声がふっと途絶え、部屋は再び静寂に包まれた。
英理の視線は、目の前のテーブルにぽつんと置かれたケーキへと落ちる。好感度100パーセント。そんな言葉が、頭の中を何度も駆け巡って離れない。
本来であれば、この上ない幸福をかみしめるべき言葉のはずだ。しかし今の英理にとって、これほど皮肉に響く言葉はほかに存在しなかった。
第1話
10年前、英理はシステムに導かれてこの世界へと降り立った。与えられた任務は、幼い頃に両親を目の前で喪い、その深い絶望から心を閉ざしてしまった京平を攻略することだった。
彼女は3年もの間、片時も離れることなく京平のそばに寄り添い続けた。両親の死という暗い影から彼を引きずり出し、ついには好感度を100パーセントにまで引き上げることに成功したのだ。
だが、3年という長い歳月をともに過ごすうちに、英理自身の胸の内にも本物の想いが芽生えていた。気づけば京平に深く恋をしていて、だからこそ彼女は元の世界へ帰らず、この世界に留まる道を選んだのだ。
京平もまた、英理のその想いに応えた。
北条グループに戻ってからというもの、周囲がどれほど政略結婚の相手を押し付けようとしても、彼はすべて冷たく突っぱねた。果ては秘書を全員男性に入れ替えるという徹底ぶりで、彼女への覚悟を示してみせたのだ。
だが、ふたりが結婚を決めたとき、北条の一族はこぞって反対の声を上げた。遊び相手ならともかく、正式に妻に迎えるなら家柄の釣り合う令嬢を選ぶべきだ。英理のような何も持たない女では到底ふさわしくない、と。
この世に唯一残された肉親である祖父でさえ、一族の無情な言い分を黙って認めた。
一族の同意を得るため、京平は後継者としての立場を懸け、家に伝わる厳しい制裁を受け入れることを決意した。
上半身裸のまま、竹刀で何度も背中を打たれる。
歯を食いしばって耐え抜いた彼の背中には、今も幾筋もの痛々しい傷跡が残っている。
そこまでしてようやく一族が示したのは、「正式な結婚は認めない。表には出さず、そばに置く程度なら黙認する」という、屈辱的な妥協案でしかなかった。
その言葉に、京平は激しい怒りを露わにした。
北条家の親族が集まる席で英理の手を固く握りしめたまま、後継者の座を捨てると宣言し、その場で家を出ることを決めたのである。
業界の人間たちはこの顛末を聞いて、京平のことを愚か者だと嘲笑った。使いきれないほどの莫大な財産を、たったひとりの女のために手放すなんて、と。中には、1年も経たずに京平が彼女に飽きるほうへ賭ける者までいた。
けれど京平は、その悪意ある賭けを見事に覆してみせた。
北条家を離れたのち、彼は自らの手で恋理グループを立ち上げ、あっという間に北条本家に匹敵する規模にまで育て上げたのだ。
結婚式の日、英理に何ひとつ不安のない確かな拠り所を用意してやりたいと、京平は恋理グループの株式をすべて彼女の名義に変更した。
結婚から2年目、ふたりの間に息子が生まれた。
出産の際、英理は大出血を起こして意識を失った。
京平は彼女の無事を願い、山の中にある神社へ続く長い石段を一段一段上りながら、何度も額が地面につくほど深く頭を下げ、必死に祈り続けたという。
英理が目を覚ますと、京平はようやく安堵したのか、それまでの恐怖が一気に押し寄せたように涙を流した。
彼女が再び同じ危険にさらされることを案じた京平は、その日の午後のうちに、迷わずパイプカットを受けていた。
息子の名前をつけるとき、京平が選んだのは「北条唯人(ほうじょう ゆいと)」だった。
自分の人生には、これから先もただひとり、英理だけがいればいい。そんな切実な想いを込めたのだと彼は言った。
世間の声も、当初の懐疑的な視線から一転し、今ではふたりの間にある本物の愛を羨む声へと変わっていた。京平のことを、上流社会でもめったにいないほどの一途な男だと、誰もが褒めそやした。
けれど、誰も知らなかった。外から見れば非の打ちどころのない一途な男、その京平が、家に居候させていた奨学生の関野郁子(せきの いくこ)と体の関係を持っていたことを。
命がけで産んだはずの息子でさえ、とうにその事実を知りながら、あろうことか京平に加担し、それを英理の前で隠す側に回っていたのだ。
その残酷な事実を知ったとき、英理はシステムに頼んで、京平の自分への好感度をもう一度調べてもらった。
システムの答えは、変わらず100パーセントだった。
納得できず結果を疑う英理に、システムは幾度となく再検証を重ねた末の数値だと、淡々と繰り返すだけだった。
けれど英理には、どうしても理解できなかった。好感度が100パーセントだというのなら、どうして京平は他の女を抱くことができたのだろう。
まさか本当に、体と心を完全に切り離せる人間がいるとでもいうのだろうか。
京平の裏切りを知ってからというもの、英理は毎日を底なしの苦痛と葛藤の中で過ごしてきた。
そして今日、彼女はついに覚悟を決めた。この世界を去り、京平と唯人、あの見せかけだけの白々しい父子に、二度と自分を見つけさせはしないと。
第2話
玄関先でかすかな物音がして、英理は物思いから引き戻された。
片手に唯人を抱き、もう片方の手に紙袋を提げた京平が、郁子を後ろに連れて戻ってきたのだ。
唯人は英理の姿を見つけるなり、京平の腕から飛び降り、紙袋を受け取って、とことこと駆け寄ってきた。
「ママ、これ僕とパパと郁子ちゃんで用意した誕生日プレゼントだよ。今日は帰ってくるの遅くなっちゃったけど、怒らないでね」
京平は息子の頭を優しく撫でると、とろけるような甘い眼差しを英理へと向けた。
「悪い、E国の仕事でちょっとトラブルがあって遅れたんだ。飛行機を3回乗り継いで、やっと今日帰ってこられたよ」
英理は思わず視線を上げ、京平の首筋に、はっきりとしたキスマークを見つけてしまった。
まだ色も鮮やかで、ここ数時間のうちに付けられたものだとひと目でわかる。
きっと仕事のトラブルなんかじゃなくて、女のせいだ。
英理は静かに目を伏せ、何も答えずに、胸に走る刺すような痛みをやり過ごそうとした。
唯人は母親の不自然な沈黙に気づくこともなく、紙袋から箱を取り出して蓋を開けた。
中からは、大粒のアコヤ真珠を連ねたネックレスが現れる。
「英理、誕生日おめでとう」
傍らに立っていた郁子が、大げさな歓声を上げた。
「わあ、こんなに大きなアコヤ真珠のネックレス、見たことない!英理さん、京平さんって本当に優しいんですね」
郁子が裏で深い関係にあることをすでに知らなければ、英理は彼女の瞳の奥に潜む嫉妬の色に気づくこともなかっただろう。
京平が自分の会社を立ち上げてから、英理は会社名義でたびたび慈善活動を行っていた。
郁子はその活動を通じて、英理が支援していた大学生のひとりだった。
郁子が卒業を控えインターンシップ先を探していると知ると、英理は迷わず彼女を会社に呼び、京平のもとで働かせることにしたのだ。
学校と会社の距離が遠いことを気にかけ、自宅に住まわせてやりさえした。
まさかそれが、自ら災いの種を家に招き入れることになるとは思いもしなかった。
郁子が欲しかったのは英理の援助などではなく、北条夫人の座だったのだ。
あと15日で、その浅ましい野望は叶うことになる。
京平も唯人も、そっくりそのまま郁子に譲ってやるつもりだった。
唯人がろうそくに火を灯し、無邪気にはしゃいで手を叩いた。
「ママ、早くお願い事して!」
英理はそっと目を閉じ、心の中で静かに願った。
元の世界に戻って、自分だけの人生をやり直したい、と。
目を開けてろうそくを吹き消すと、京平が愛おしそうに英理を抱き寄せた。
「今年は何をお願いしたんだ?教えてくれたら、俺が叶えてやる」
唯人が横から興奮気味に口を挟んだ。
「僕知ってるよ!きっといつもみたいに、家族みんなで幸せにずっと一緒にいられますようにって、お願いしたんでしょ!」
英理は小さく笑みをこぼした。
違う。
もう、私の誕生日の願いに、あなたたちが関わることはない。
京平がイチゴが乗っている部分を切り分けて、英理に差し出した。
「ほら、お前の好きなイチゴだ」
それを見た唯人が、急いでフォークでイチゴを刺し、彼女の口元へ運んだ。
郁子がひどく羨ましそうに口を開いた。
「まあ英理さん、京平さんみたいな素敵な旦那さんがいて羨ましいです。唯人くんもこんなに優しいし」
英理の表情は、どこまでも凪いでいた。
「だったら、その素敵な旦那と息子、あなたに譲ってあげようか?」
郁子の瞳に一瞬だけ喜びの色がよぎったが、彼女が口を開く前に京平が遮った。
「おい、そんな冗談はよせ。仕事で郁子を近くに置いてるのは、お前が目をかけてる子だからってだけだ。俺と息子が一番愛してるのはお前だけだ。お前がいなきゃ困る」
京平の表情は真剣そのものだった。
唯人も慌てて、英理の腰に抱きついた。
「僕のママはひとりだけでいい。他の人はいらないよ!」
そう?
だったら、どうしてひとりは郁子の腰を抱いて甘い言葉を囁き、もうひとりは彼女の腕の中で「ママ」と甘えているの?
英理は胸の内にせり上がる重い感情を押し殺し、これ以上この白々しい父子と向き合いたくなくて、2階へ上がり休むことにした。
京平はすぐに温かいミルクを1杯持って、ベッドまで運んできた。
「これを飲んでから寝ろ。よく眠れるから。俺と唯人も後で上がってくるからな」
よほど心が疲れ切っていたのだろうか。ミルクを飲み干すと、英理はすぐに深い眠りに落ちた。
夜中になって、彼女はぼんやりと目を開けた。体中にまったく力が入らない。
隣にいるはずの誰かに水を頼もうとしたが、目に入ったのは熟睡している唯人の姿だけで、ベッドのもう片側はすでに冷え切っていた。
仕方なく英理はどうにか体を起こし、階段まで辿り着いたところで、目を疑うような光景を目にすることになった。
第3話
京平と郁子は、大きな窓の前で一糸まとわぬ姿で、激しく絡み合っていた。静まり返った部屋に、艶めいた喘ぎ声だけが響いている。
「んっ……京平さん、今朝も車の中でしたばっかりなのに、まだ足りないの?」
京平の腰は止まることなく動き続け、片手で女の両手首を頭上に押さえつけ、もう片方の手で体を反転させて冷たい窓ガラスに押し付ける。
「これ、お前が望んだことじゃないのか?さっきテーブルの下で足を絡めて誘ってきたのはどこの誰だ?自分で火をつけたんだ、最後まで付き合ってもらうぞ」
郁子は大きく仰け反りながら、堪えきれない喘ぎを漏らし、ガラスに無数の手形をつけていく。
「あんっ、もうちょっと優しくして……っ。英理さんを起こしちゃう」
「大丈夫だ、あいつのミルクに睡眠薬を半錠混ぜておいた。起きるわけがない。それに唯人が部屋にいる。俺たちが下にいるのは知ってるから、英理が降りてこないようにしてくれる」
ふたりの動きはますます激しくなり、郁子の嬌声も次第に高まっていく。階段の陰に立っていた英理は、ついに力が抜け、ずるずると床へへたり込んだ。
口元を両手で覆い、涙が止めどなく溢れ出す。
屋敷の中は暖房が効いて暖かいはずなのに、英理はまるで外の雪原に放り出されたかのように感じていた。心臓ごと凍りついて、二度と動かなくなってしまいそうだった。
ふたりの関係をすでに知っていたとはいえ、京平が郁子とふしだらな時間を過ごすために自分に薬まで盛るとは、想像すらしていなかったのだ。
おまけに、自慢だったはずの「良い息子」までもが、ふたりのために見張り役を買って出ていた。
英理はよろめきながら立ち上がり、胸を引き裂くような痛みを無理やり抑え込んだ。
こんな100パーセントの好感度なんて、もう二度といらない。
翌朝、京平はまるで何事もなかったかのように、自ら朝食を作っていた。
英理が階下に降りると、味噌汁をお椀によそい、息を吹きかけて冷ましてから彼女の前に置く。
「ほら、食べてみろ。朝早く起きて作ったんだ」
本当に朝早く起きたのか、それとも昨夜郁子と一晩中絡み合って、一睡もしていないだけなのか。
英理は瞳に浮かんだ皮肉な色を隠し、黙って朝食を口に運んだ。
郁子が頬杖をついて、感慨深げに言った。
「京平さんって本当に細やかですね。でも私の彼氏も負けてませんよ。京平さんみたいな彼氏がいるなんて、私って幸せ者だなあ」
英理は箸を止め、どこか得意げな光をたたえた郁子の瞳を見返しながら、静かに尋ねた。
「あら、いつから彼氏がいたの?」
郁子は小さく笑った。
「フフ。2ヶ月前からです」
箸を握る英理の手に力がこもり、爪が知らず知らずのうちに、手のひらに食い込んだ。
2ヶ月前といえば、郁子がちょうど家に住み始めた頃だ。あの頃からもう、ふたりはそういう関係だったということか。
ちょうどテレビの朝のニュースが、芸能界で仲睦まじいと評判だった夫婦の破局を伝えていた。夫の浮気が原因で、妻は大きな傷を負い、海外で心理療法を受けているという。
英理は茶碗を置き、京平をまっすぐに見て尋ねた。
「一生ひとりの女しか愛さないと誓っておきながら、裏で別の女と関係を持つような男が、本当にいるのかしら」
京平が見つめ返す瞳には、相変わらず愛おしさが満ちていた。
「他の男のことは知らないが、俺は絶対にそんなことはしない。この一生、俺が愛するのはお前だけだ」
「じゃあ、もし私を愛さなくなったら……」
言い終わらないうちに、京平が慌てて遮った。
「そんなこと絶対ない!俺のお前への愛は、誰もが知っていることだ。他の女なんて全員束になっても、お前の足元にも及ばない!」
ちょうど目を覚まして階下に降りてきた唯人が、その言葉を耳にしてすかさず、英理の胸に飛び込んできた。
「ママ、安心して。僕がパパの証人になってあげる。パパの周りには他の女の人なんていないよ。会社の秘書さんだっておじさんばかりで、女の人はいないもん」
英理は皮肉に口の端を吊り上げた。
京平、唯人。嘘をついた人間には、いつか必ず報いが来るものよ。
「そうだ、朝食を食べたらスキー場に行かないか?
昨日は帰りが遅くなったからな。今日はちゃんと付き合って、改めて誕生日のお祝いをしよう」
唯人もキッチンからジュースを持ってきて手渡すと、彼女の腰に抱きついて甘えた。
「行こうよママ、スキーってすっごく楽しいんだよ」
郁子はうつむき、わざとらしく沈んだ様子を見せた。
「……私、生まれてからずっと、スキー場なんて行ったこともないんです」
京平が探るような口ぶりで切り出した。
「なあ、郁子も一緒に連れて行ってやったらどうだ。スキーを体験させてやろう。
それに郁子がいれば、いろいろと手配も手伝ってもらえて、都合がいいだろ」
唯人も期待に満ちた目で彼女を見つめてくる。
英理は小さく頷いた。
本当に都合のためなのか、それとも片時も郁子と離れたくないだけなのか。
もう、この親子の本当の思惑を探る気力もなかった。好きにさせておけばいい。
スキー場に着き、京平と唯人が車から降りると、郁子は自分の首に巻いていたマフラーをごく自然に外して、唯人の首に巻いてやり、続けて京平に暖かい飲み物を手渡した。
英理は、その流れるように自然な一連の仕草を、黙って見つめていた。
唯人は幼いながらも、北条家の人間以外に触れられるのをひどく嫌う子だったはずだ。
京平も6年前に飲み物に薬を盛られて以来、彼女以外の女が差し出す飲み物には決して口をつけない男だった。
それがたった2ヶ月で、郁子はこの父子にとって、英理以外の唯一の例外になっていた。
ふと、英理の目が郁子の手首で柔らかな光を放つものを捉えた。
「その手首につけてるの、何?」
郁子は白い手首を見せつけるように差し出した。そこには、大粒の真珠を連ねた高価そうなブレスレットがはめられており、言葉の端々にはどこか嫌味な含みがあった。
「これ、彼氏がくれたプレゼントなんです。デザインは彼の息子さんが選んでくれたんですよ。
息子さんは前の奥さんとの子なんですけど、もう内緒で私のことを『ママ』って呼んでくれてるんです」
第4話
この5年、京平から数えきれないほどのジュエリーを贈られてきた英理には、ひと目でわかった。このブレスレットは、昨晩のネックレスと本来一揃いのものだ。
英理は皮肉げに口の端を上げた。
「郁子、あなたの彼氏も、その息子さんも、随分あなたのことを大事にしてるのね」
京平と唯人は、本来一揃いだったジュエリーをふたつに分け、半分を彼女に、もう半分を郁子に贈っていたのだ。
まるで彼らの心もまた、ふたつに都合よく割り切れるものだとでもいうように。
郁子は目を細めて嬉しそうに笑った。
「そうなんです、ふたりとも私のことが一番好きだって言って、可愛がってくれるんですよ」
何かを勘づかれるのを恐れてか、その後も京平と唯人は英理のことを過剰なまでに気遣い続けた。
英理が軽く咳をすると、京平はすぐに自分の上着を脱いで肩にかけ、温かい飲み物を手渡した。
唯人も自分のマフラーを外し、いっちょまえな手つきで彼女に巻いてやりながら、大人のように「暖かくしてね」と言い聞かせた。
けれど英理は、香水の匂いが染みついたそれらに触れる気にもなれず、ただ「ホテルで休みたい」とだけ告げて、その場を後にした。
京平と唯人は顔を見合わせると、示し合わせたように彼女に付き添ってホテルへ戻ることにした。
夕方になって、京平のスマホが鳴った。
彼はとっさに手を伸ばして音を消すと、ベッドで身じろぎもしない英理を確かめてから、ほっと息をついた。
画面には郁子の名前が点滅し続けている。傍らの唯人が京平の袖を引き、声を潜めた。
「パパ、郁子ちゃんに会いたい」
京平は慌てて唇に指を立てて合図すると、ふたりは目配せを交わし、足音を忍ばせて部屋を出て行った。
ドアが閉まった瞬間、英理は目を開け、上着を羽織ってふたりの後を追った。
京平と唯人は急ぎ足で廊下を進み、やがて郁子の部屋の前へとたどり着いた。
ドアが開くやいなや、郁子がひどく甘えるような声で京平の胸に飛び込んだ。
「京平さん、やっと来てくれたんですね。今日はひとりでホテルにいて、すごく怖かったんですよ。
英理さんみたいに1日中一緒にいてほしいなんて、わがままは言いません。ただ、毎日2時間だけでいいから、私のそばにいてくれたら……」
そう言いながら、郁子は小鹿のように潤んだ瞳で京平を見上げた。
京平は郁子の涙にはからきし弱かった。それを目にした途端に心が緩み、慌てて彼女を抱き寄せて慰め始める。
「2時間なんかで足りるわけないだろう。今夜は俺と唯人で、一晩中お前についていてやる」
唯人も横から言葉を添えた。
「ママが眠ったらすぐパパと来たんだよ。僕たちだって郁子ちゃんと一緒にいたかったんだから」
郁子は感激した様子を見せたものの、ふと何かを思い出したかのように表情を曇らせた。
「実は、私も今日すごく寒かったんです。でもおふたりの目には英理さんしか映ってなくて、私がわざわざ用意したマフラーも暖かい飲み物も……」
唯人は郁子を悲しませまいと、慌てて駆け寄って彼女の手を握った。
「郁子ちゃん、泣かないで!全部僕とパパが悪いんだ。僕が温めてあげる、僕の手はマフラーよりずっと温かいんだから!」
京平も愛おしそうに彼女の鼻先をつついた。
「まったく、こんなことでも妬くのか。E国でのスキーが物足りなかったって聞いたから、わざわざこの場所を選んだんだぞ。それでも足りないか?」
それを聞いた郁子は顔を上げると、素早く彼の口元にキスを落とした。
「ありがとう、京平さん」
京平の瞳が一瞬にして昏く沈み、郁子の頭を引き寄せると、ふたりは舌を絡めるような深い口づけを交わした。
唯人は目を覆いながら、部屋の奥へと駆けていった。
「うわ、僕、お邪魔虫にはなりたくないもん!」
しばらくしてようやく京平が体を離すと、郁子は顔を真っ赤にして、軽く彼の胸を叩いた。
「唯人くん、さっきまでここにいたのに」
京平は彼女の手を取り、唇へと運んで口づけた。
「何を気にしてる。あいつだって、初めて見るわけじゃないだろ」
そう言うと郁子の腰を抱き寄せ、部屋の中へと消え、扉を閉めた。
壁の陰に隠れていた英理の頬は、とうに涙で濡れていた。
ふたりの裏切りはとうに知っていたはずなのに、いざこの目で目撃してしまうと、骨の髄まで染み渡るような痛みが襲ってくる。耳にした言葉のひとつひとつが鋭い刃と化し、心臓を幾度も突き刺していくようだった。
誕生日をやり直すだなんて言葉も、結局は郁子の「物足りなかった」という不満を埋めるためのものでしかなかったのだ。
英理はその場にしゃがみ込み、ひどく痛む胸を押さえた。昨夜の言葉が、いつまでも耳の奥に響き続けている。
私を手放すつもりはない、って言いたいの?
でも、京平。唯人。私はもう、あなたたちから離れる覚悟を決めたのよ。
第5話
翌朝、英理が目を覚ますと、ちょうど京平と唯人が朝食のトレイを手に、部屋へ入ってくるところだった。
目覚めた英理を見つけると、京平はごく自然な仕草でトレイを差し出し、とろけるような眼差しを向けた。
「もう少し寝かせてやりたくて、俺たちで早起きして、朝食をもらいに行ってきたんだ」
唯人も短い手足でベッドへよじ登り、英理の肩に寄りかかる。
「ちょっと離れてただけなのに、もうママに会いたくなっちゃった」
隣の冷え切ったシーツに触れながら、英理の瞳に自嘲の色が浮かぶ。
一晩中部屋に戻ってこなかったくせに、たった今郁子のベッドから抜け出してきたばかりだというのに。この父子にかかれば、「朝食をもらいに行っていた」のひと言で済んでしまう。
これほど演技が上手いとは、今の今まで気づきもしなかった。
朝食を終えるなり、ふたりは急かすように英理をスキー場へ連れ出した。
郁子はすでにスキーウェアに着替え、入口で待ち構えていた。
けれど英理には、スキーを楽しむ気力など残っていなかった。
京平が心配そうに彼女を見つめ、探るような口調で切り出した。
「なあ、ここ数日どうしたんだ?俺か唯人が、何かお前を怒らせるようなことでもしたか?」
英理は首を横に振る。
「ううん、ただ前に見たあのニュースで、少し気が滅入ってるだけ」
京平はほっと息をつくと、英理の額にそっと口づけを落とした。
「安心しろ、俺たち家族に限って、そんなことは絶対に起きないから。
滑りたくないなら、それじゃあ……」
言い終わらないうちに、わざとらしく言い淀む郁子の声が割り込んだ。
「京平さん……」
郁子の期待に満ちた眼差しを見た京平は喉仏を上下させ、口にしかけた言葉を変えた。
「なら、ここでおとなしく待っててくれ。俺たち3人で少し滑ってすぐ戻ってくるから」
唯人は何も言わなかったが、英理は、息子の手がこっそりと郁子の裾を掴んでいるのを見逃さなかった。
よほど3人だけの水入らずの時間を望んでいるのか、もはやその親しげな素振りを英理に見られることすら気にしていない。
英理は黙って頷いた。
京平はホテルのスタッフに英理の世話を頼み、鞄から手袋を取り出して丁寧にはめてやった。
「ここは寒いから風邪をひかないか心配だ。具合が悪くなったらすぐ電話しろよ」
唯人もいっちょまえな手つきで、英理の服のファスナーを確かめた。
「僕も、ママが風邪引いちゃうの嫌だもん」
京平と唯人が英理ばかり気遣うのを見て、郁子は思わず嫉妬を滲ませた。
「京平さんも唯人くんも、本当に英理さんに優しいんですね」
その言葉に英理が顔を上げると、郁子の瞳にはまだ隠しきれない嫉妬の色が残っていた。
英理は小さく笑い、含みを持たせて答えた。
「あなたの彼氏と、その息子さんのほうが、あなたのことをもっと愛してると思うわ」
英理に隠れて、郁子ともうひとつの家庭を築き上げていること自体、彼らが英理の気持ちなど顧みず、郁子との時間を何より大切にしている証拠だった。
そう言い終えた瞬間、雪山から轟音が響き、足元の地面までもがかすかに震え始めた。
何が起きたのかと尋ねようとした矢先、顔を上げた英理の目に、巨大な白い雪崩が猛スピードで押し寄せてくる光景が飛び込んできた。
周囲の人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、辺りは瞬く間に混乱に包まれる。
英理は反射的に京平の裾を掴んだ。
けれど次の瞬間、その裾は手からするりと抜け落ち、京平は郁子のいる方向へと駆け出していった。
さっきまで英理のそばにいた唯人も、同じ方向へ走っていく。
「郁子っ!」
「郁子ちゃーん!」
ゴゴゴゴッ!
重く積もった雪が、英理めがけて崩れ落ちてきた。
意識が途切れる直前、目に映ったのは、かつて愛を誓った京平と守ると約束したはずの唯人が、腕の中の郁子をしっかりと庇う姿だった。
第6話
再び意識を取り戻したのは、あの日からすでに1週間が過ぎた後のことだった。
目を覚ました英理を見て、看護師は驚いたように目を見開き、すぐに医師を呼びに走った。
「北条さん、気がつかれたんですね!
ご主人と息子さん、ずっと心配されてたんですよ。いろんな病院に相談して、腕のいい先生にも来てもらって……
北条社長なんて、少しでも早く回復しますようにって、慈善団体に2億円も寄付されたそうですよ。
目を覚まされたと知ったら、きっとお喜びになりますよ」
言い終わるか終わらないかのうちに、京平と唯人がドアを押し開けて入ってきた。
目を覚ましている英理を見るなり、ふたりは安堵と恐怖の入り混じった表情で彼女を強く抱きしめ、瞳には痛ましげな色が滲んでいた。
「やっと目を覚ましたか……この1週間、俺がどれだけ心配したかわかるか!」
唯人も目を真っ赤にして声を震わせた。
「ママ、目を覚まさなかったらどうしようって、すごく怖かったよ……」
その時、英理の手の甲に、京平の目から熱い雫がひとつ落ちた。
唯人の目にも、涙が今にもこぼれ落ちそうに揺れている。
けれどふたりの涙は、英理の心に何の波風も立てることはなかった。
ただただ、皮肉なものだとしか思えなかった。
危険が迫ったあの瞬間、ふたりが咄嗟に庇ったのは郁子だったのだから。
あの光景を目にした時、心が痛まなかったと言えば嘘になる。
英理は持てる愛情のすべてを注いで、京平を愛してきたつもりだったし、唯人だってこの手で大切に育て上げてきた。
それなのに郁子は、たった数ヶ月前に現れただけで、いともたやすくそのすべてを塗り替え、英理の居場所を奪い取ってしまった。
京平と唯人は英理の様子を見て慌てたように、すぐに弁解し始めた。
「あの時は本当に余裕がなくて、どっちがお前なのか一瞬分からなくなったんだ。それで、間違えて郁子のほうを庇ってしまった」
「ママ、ごめんね。僕もパパも、もう二度とママを危ない目に遭わせない。今回は本当に僕たちが悪かった」
目覚めたばかりの体はまだ弱く、今の英理にはただ疲労感だけがのしかかっていて、この稚拙な嘘を追及する気力すら残っていなかった。
あと1週間さえ耐えれば、この仮面をつけた父子から離れることができる。
その後の数日、ふたりはうしろめたさからか、片時も離れず病室で英理に付き添い続けた。
とはいえ京平のスマホは休む間もなく鳴り続け、毎日ひっきりなしに着信があったが、彼はあえてすべてを無視していた。
そんなある日、メッセージを受信すると、画面を見た京平は顔をこわばらせ、表情がかすかに変わる。
ほんの一瞬の間を置き、彼はどこか申し訳なさそうに口を開いた。
「……悪い、会社で少し急な用ができた。ちょっと片付けてくる」
唯人も画面を覗き込み、内容を見るなり慌てて言った。
「ママ、僕もパパと一緒に会社に行く」
英理はその表情の変化を余さず見て取っていた。
会社の用事に、唯人が同行する必要などあるはずがない。
つまり、郁子の用事に決まっている。
英理が頷くのを見て、ふたりはようやく慌ただしく病室を後にした。
英理はベッドを抜け出し、後を追った。
病院の廊下の角で、涙に濡れた顔の郁子が京平の胸に飛び込んでいくのが見えた。
京平は少し険しい表情で郁子の手を引き剥がすと、警告するような口調で言った。
「病院に何をしに来た?言っただろう、英理はまだ完全には回復してない。ここ数日は大人しく家で待ってろ、あいつの前に姿を見せるな!」
その言葉に郁子はいっそう激しくすすり泣き、もう一度彼の胸に飛び込むと、腰に腕を回し、ひどく傷ついたような声で訴えた。
「私、ただおふたりに会いたかっただけです。毎日病院にいて家に帰ってこないから、もう10日もお顔を見てません。前は毎日最低2時間は一緒にいてくれるって約束したじゃないですか!」
郁子が泣いているのを見て、唯人も慌てて言い募った。
「僕とパパだって、郁子ちゃんに会いたかったよ。でもママの体がまだ治ってないから、そばにいてあげなきゃいけなくて。
パパ、早く郁子ちゃんを慰めてあげてよ」
郁子の涙と息子のとりなしに、京平はため息をつくと表情を緩めた。
「もう泣くな。お前が泣いてるのを見ると、俺も辛い。これから2日間は、お前に付きっきりでいてやるから、それでいいだろう」
郁子の泣き声がぴたりと止んだ。
「……本当ですか?」
確かな返事を聞いて、郁子はようやく涙の中に笑みを浮かべた。両手を彼の首に回し、瞳には甘えるような色が滲んでいる。
京平の瞳がふっと昏くなり、喉が鳴ったかと思うと、次の瞬間には彼女の後頭部を抱え込み、強く唇を重ねていた。
ふたりは貪欲に舌を絡め合い、卑猥な水音を立てながら、まるでこの10日間の想いをすべて注ぎ込むように口づけを交わし続けた。
唯人はその光景に目を覆って顔を背けたものの、声はどこか楽しそうだった。
「パパと郁子ちゃん、イチャイチャしてる!」
英理はふらふらと病室へ戻ると、涙が頬を伝って枕を濡らしていくのを感じながら、声を殺すためにきつく下唇を噛みしめた。
もう少しだけ、あと少しだけ我慢すれば離れられる。そう心の中で繰り返した。京平と唯人のために涙を流すのは、これが最後だと。
第7話
長らく放っておかれたことへの焦りからか、郁子はついに仮面を脱ぎ捨て、本性を剥き出しにした。
翌朝、目を覚ました英理を待っていたのは、昨夜のうちに郁子から立て続けに送りつけられた挑発的なメッセージの数々だった。
【英理さん、見てたの知ってますよ。どうでした?自分の旦那が目の前で他の女にキスして、そのうえ息子まで一緒になって隠してるなんて。どんな気分ですか?】
【京平さん、私が泣く顔が一番好きなんですって。たまらないって言ってましたよ。特に……ベッドの上ではね】
【私が泣くと、いつもよりずっと激しくなるんです。声が枯れるくらい泣いてもやめてくれなくて、24時間ずっと私とくっついていたいって言うんですよ。あなたには、あんなふうに夢中になったこと、一度もないんじゃないですか?】
【私たちが初めて関係を持ったのは、あなたの隣の部屋だったんですよ。それからは、あなたが起きないように京平さんが睡眠薬を飲ませて、毎晩私と激しく求め合ってるんですよ】
【息子さんだって、私にそばにいてほしいって言って、もう「ママ」って呼んでくれてるんですよ】
【北条家の奥様なのに、本当に惨めですね】
その挑発的な文面を見つめながら、英理は胸に渦巻く感情を無理やり押し殺し、メッセージをすべてスクリーンショットに収めた。
離脱まであと3日。これらは、京平と唯人へのとびきりの置き土産にしてやろう。
午前中、彼女は退院を申し出て、病院からその旨が京平に伝えられた。
ほどなくして京平から電話がかかってきた。声には申し訳なさが滲んでいる。
「悪い、最近会社の用があって手が離せなくてな。誰かに迎えを頼むから、それで帰ってくれ。唯人は俺が見てるから、お前は家でしっかり休め」
ふたりが郁子に付き添っているのだと知りながら、英理はただ淡々と「ええ」と返した。
離脱を3日後に控えたその日、家に戻った英理は使用人に、自分の私物をすべて片付けて処分するよう言いつけた。
使用人のひとりが不思議そうに尋ねた。
「奥様、新しいものにお取り替えになるのですか?」
英理は静かに頷いた。
「ええ、そうよ」
使用人たちは知る由もなかった。新しくなるのは物だけではなく、この家の女主人そのものも入れ替わるのだということを。
離脱を2日後に控えた日、英理は彼女と京平、唯人だけが立ち入ることを許された秘密の部屋を開けた。
部屋の壁には、10年間撮り溜めてきた写真がびっしりと貼られていた。唯人が生まれてからは毎年欠かさず撮ってきた家族写真も、そこに並んでいる。
10年という歳月の中で、写真の中のふたりは初々しい顔つきから大人びた顔つきへと変わり、やがてふたりだけだったものが3人へと増えていった。
けれど今、その中からひとりの顔を消さなければならない。
英理ははさみを手に取ると、朝から晩まで部屋にこもり、すべての写真から自分の姿だけを切り取っていった。残ったのは、京平と唯人、ふたりだけの姿だった。
さらに金庫の中から、7年前に京平が大切そうにしまい込んだ婚姻届受理証明書を取り出した。
確認してみると、そこには意外にも、結婚式で京平が読み上げた誓いの言葉を書いたカードが一緒にしまわれていた。
【英理、お前は俺にとって、この世界のすべてだ。
お前がいてくれるから、俺の世界はもう一度陽の光で満たされた。
これから先もずっとお前を愛し、大切にする。俺たちはきっと共に年老いて、何度生まれ変わっても愛し合っていくと信じている】
彼女は一字一句を追うように読み進めていく。びっしりと文字が綴られたそのカードは22歳だった京平が英理へ捧げた、溢れんばかりの想いを物語っていた。
最後まで読み終えると、英理は声もなく笑った。目の端がわずかに滲んでいる。
やがて誓いの言葉が書かれたカードを婚姻届受理証明書と重ね、切り取った自分の写真とともに庭の真ん中に積み上げ、火を放った。
彼女はその場に立ち尽くし、写真も婚姻届受理証明書も燃え尽きて灰になっていく様を、最後まで見届けた。
離脱を1日後に控えた日。英理はこの数日で郁子から送りつけられた写真とメッセージのスクリーンショットをすべて印刷した。
そこには、上半身裸の京平が、首筋にキスマークをいくつも残した郁子を抱きしめている写真。
郁子の胸に甘えるように寄りかかり、寝る前のお話を聞いている唯人の写真。
郁子、京平、唯人の3人が揃ってキャラクターのカチューシャをつけ、遊園地で撮った写真。
もっと胸が痛むはずだと思っていたのに、いざこれらの写真を前にしてみると、そこにあるのはただ氷のように冷え切った心だけだった。
印刷した写真をすべてファイルに収めると、結婚指輪も外して、その中に一緒に入れた。
……
離脱の日は、奇しくも英理と京平の結婚7周年の記念日と重なっていた。
ここ数日顔を見せなかったふたりが、朝早くから帰ってきた。
京平の手には、ハート形のケーキが入った箱が提げられている。
「最近仕事にかまけてたのは俺の落ち度だ。今日は結婚記念日だからな、俺も唯人もどこにも行かず、1日中お前に付き合うよ」
唯人も拳を掲げて誓ってみせた。
「ママ、僕が証人だよ。パパは毎日ちゃんと会社で残業してたんだから。僕だってちゃんとパパのことを見張ってたんだよ」
自信満々な様子のふたりを見つめ、英理は静かに口を開いた。
「疲れない?」
自分と郁子の間を行き来しながら、自分の前では良き夫、良き息子を演じ続ける。そんなことをして、本当に疲れないのだろうか。
第8話
京平と唯人が声を揃えて答えた。
「ちっとも疲れないよ!」
唯人は英理の手を引き、瞳をきらきらさせて見つめてくる。
「ママに関することなら、僕、ちっとも疲れないよ」
京平は愛おしそうに英理の頬をつまんだ。
「どんなに仕事が忙しくて辛くても、お前の顔を見た瞬間に、疲れなんて全部吹き飛ぶんだ。
まして、今日は俺たちの結婚記念日だろう。毎年欠かさず一緒に祝ってきたんだ。会社にどれだけ用があろうと、必ず帰ってくるさ」
英理はただ微笑むだけで、それ以上何も言わなかった。
京平はケーキの箱を置くと、すぐさまキッチンへ向かい、忙しく動き始めた。
今日は使用人全員に休みを与え、記念日を祝うために英理の好物を自ら作るつもりなのだ。
唯人も負けじと小さな踏み台を持ってきて、果物を切ってジュースを作り始めた。
半日がかりで支度をし、昼になってようやく料理がすべてテーブルに並んだ。
京平は「7」の数字を象ったろうそくに火を灯し、英理の手を握る。その瞳には溢れんばかりの愛おしさが滲んでいる。
「なあ、もしあの頃お前がそばにいてくれなかったら……」
唯人が横で嬉しそうに手を叩いた。
「わあ、パパとママ、すごくロマンチック!」
けれど、けたたましい着信音がその空気を引き裂いた。
英理は握られていた手を引き抜き、画面に郁子の名前が点滅しているスマホを彼に差し出す。
京平は微笑みながら、今日は誰からの電話にも出ないと言った。
けれど英理がなおも押し付けると、画面を見た彼は一瞬迷い、結局電話を手に取った。
「悪い、アシスタントからだ。会社で急ぎの用かもしれないから、出るよ」
そう言うと、彼は少し離れた場所へ移って電話に出た。
戻ってきた彼の顔には、案の定、いつもの見慣れた申し訳なさそうな表情が浮かんでいた。
「悪い、会社で急な用事が起きたんだ。処理しに行かないとな」
唯人は電話の内容までは知らなかったが、郁子からの電話だと分かるなり、椅子から飛び降り、京平のそばに駆け寄る。
「ママ、僕も一緒に行きたい。パパをちゃんと見張って、早く仕事を終わらせて帰ってこさせるから」
どこか待ちきれない様子を隠しきれずにいるふたりの姿を見つめ、英理はただ小さく頷いた。
「行っていいわよ」
京平はほっとした様子で唯人を抱き上げると、ふたりは左右から英理の頬に口づけを落とした。
「家で待っててくれ」
「ママ、またあとでねー!」
そう言い残してふたりは慌ただしく去っていき、英理の沈黙にはまるで気づかなかった。
これが3人での最後の対面になるとは、彼らは知る由もなかったのだ。
窓の外で京平の車が完全に見えなくなったのを確認すると、英理はテーブルの上で燃え尽きたろうそくをケーキごとゴミ箱に放り込み、寝室へ戻って用意しておいたファイルを手に取り、家を後にした。
……
10年前、英理と京平が出会ったのは、郊外にある小さな民間の療養施設だった。
今ではすっかり荒れ果て、壁一面を蔦が覆い尽くしている。
記憶の中の道をたどるように、立ち止まってはまた歩き出す。京平にまつわる思い出が、波のように次々と押し寄せてくる。
初めて会った時の彼は、何をされても何の反応も示さなかったこと。やがて少しずつ英理の存在に慣れていったこと。そして最後には、土砂降りの雨の中で強く抱きしめて離さなかったこと。
英理の足は、裏庭にある大きな木の下で止まった。
10年前は枝葉を豊かに茂らせていたその木も、今ではすっかり葉を落とし、剥き出しの枝だけが残っている。
英理は幹に刻まれ、もう薄れて読み取るのも難しくなったふたりの名前を指でなぞる。
まるであの頃の、頑なな面持ちの奥に愛おしさと緊張を滲ませていた少年の姿が、再びそこに見えるようだった。
彼は言った。
英理、この先ずっと、愛するのはお前だけだと。
絶対に離さない。これからもずっと一緒にいようと。
そう言って、一文字ずつ丁寧に、ふたりの名前を刻んだ。
けれどその後、彼の心はまるでふたつに裂かれたかのように、半分は英理に、そしてもう半分は外の女に渡されてしまった。
そしてその「ずっと一緒に」というのは、たった10年で終わりを迎えた。
10年前、19歳だった京平はまだ知る由もなかった。29歳になった自分が、英理を永遠に失うことになろうとは。
英理は石で土を少しずつ掘り返して穴を作り、手にしたファイルをその中に入れ、丁寧に土をかぶせた。
そして、京平に最後の電話をかけた。
コール音はほとんど鳴らず、すぐに電話は繋がった。聞こえてきた声はいつも通り優しかった。
「どうした、何かあったのか?」
目の前の大きな木を見つめながら、英理は静かに口を開いた。
「療養施設にあったあの木、覚えてる?」
京平の声には、笑みが滲んでいた。
「もちろん覚えてるさ。あの木の下でお前に告白したんだ。時が経つのは早いな、もうすぐ10年になるのか」
英理もまた、静かに微笑んだ。
「よかった。あなたと唯人にプレゼントを用意して、あの木の下に埋めておいたの。忘れずに取りに来てね」
「唯人がそれを聞いて、もう興奮してるよ。俺も楽しみだ。会社の用事が済んだらすぐ取りに行って、今夜は3人で一緒に見よう」
英理は答えず、電話を切った。
もう、3人で何かをすることは二度とない。
今夜、父子が家に戻らないことは、英理にはわかりきっていた。
そして英理自身も、もう戻ることはない。
これから先、北条家に英理の姿が戻ることは二度とないのだ。
久しぶりに、あの機械的な声が耳元で響いた。
「攻略者様、離脱プログラムの準備が整いました。離脱を確定なさいますか?」
「ええ、離脱するわ」
そう答えた瞬間、目を刺すような白い光が英理の前に現れ、一本の通路を形作った。
辺りに突風が巻き起こり、地面の落ち葉を舞い上げて、空中にひらひらと散らしていく。
英理は迷うことなく、その中へ足を踏み入れた。
京平、唯人。これから先、私たちはもう、二度と会うことはない!