遅すぎた懺悔を、私は待たない

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遅すぎた懺悔を、私は待たない

GoodNovel 完結

母は息も絶え絶えになりながら、何度も瀬越湊(せごえ みなと)の名を口にしている。 母が湊の到着まで持ちこたえられないかもしれないと思い、私・瀬越彩良(せごえ さら)はビデオ通話をかけた。 「湊、母がもうだめかもしれない。話したがってるの」 けれど、画面に映ったのは湊の会社の新入社員、七井知夏(なない ちなつ)だ。 「奥さん、湊さんは今、車を走らせてN市からT市へ向かっています。運転中だから、電話に出られなくて」 私は一瞬、言葉を失った。 「N市?」 ――会社で手一杯になっているはずの湊が、どうして600キロも離れたN市に行ったの? 知夏の声には、隠しきれない得意げな響きがある。 「母が頭が痛いって電話してきたんです。それで湊さんが会議を全部キャンセルして、すぐ車を飛ばして、母をT市まで検査に連れてきてくれたんです」 私はスマホを握りしめたまま、指先まで震えている。 母が危篤なのに、たった6キロの距離ですら、湊は手が離せないと言って付き添ってくれなかった。 知夏の母親がひと言「頭が痛い」と言っただけで、湊はすべてを放り出し、600キロも走って迎えに行ったのだ。 受話口から湊の声が聞こえた。冷たい声だ。 「もうすぐ高速道路を降りるんだ。お母さんに、もう少しだけ頑張ってもらってくれ」 その返事の代わりに響いたのは、心電図モニターの耳をつんざくような警告音だ。 画面で跳ねていた心拍数が、完全に一本の冷たい線へと変わった。 私はその場に立ち尽くしたまま、スマホが手から滑り落ちた。 母は逝った。 そして、湊との結婚生活も、もう無理して続ける気はない。

チャプター (1)

第1章

母は息も絶え絶えになりながら、何度も瀬越湊(せごえ みなと)の名を口にしている。 母が湊の到着まで持ちこたえられないかもしれないと思い、私・瀬越彩良(せごえ さら)はビデオ通話をかけた。 「湊、母がもうだめかもしれない。話したがってるの」 けれど、画面に映ったのは湊の会社の新入社員、七井知夏(なない ちなつ)だ。 「奥さん、湊さんは今、車を走らせてN市からT市へ向かっています。運転中だから、電話に出られなくて」 私は一瞬、言葉を失った。 「N市?」 ――会社で手一杯になっているはずの湊が、どうして600キロも離れたN市に行ったの? 知夏の声には、隠しきれない得意げな響きがある。 「母が頭が痛いって電話してきたんです。それで湊さんが会議を全部キャンセルして、すぐ車を飛ばして、母をT市まで検査に連れてきてくれたんです」 私はスマホを握りしめたまま、指先まで震えている。 母が危篤なのに、たった6キロの距離ですら、湊は手が離せないと言って付き添ってくれなかった。 知夏の母親がひと言「頭が痛い」と言っただけで、湊はすべてを放り出し、600キロも走って迎えに行ったのだ。 受話口から湊の声が聞こえた。冷たい声だ。 「もうすぐ高速道路を降りるんだ。お母さんに、もう少しだけ頑張ってもらってくれ」 その返事の代わりに響いたのは、心電図モニターの耳をつんざくような警告音だ。 画面で跳ねていた心拍数が、完全に一本の冷たい線へと変わった。 私はその場に立ち尽くしたまま、スマホが手から滑り落ちた。 母は逝った。 そして、湊との結婚生活も、もう無理して続ける気はない。 第1話 母は病床に静かに横たわっていて、まるで眠っているようだ。 「お母さんは……どうだ?」 声が聞こえ、私は振り返った。 湊が、少し息を切らしながら後ろに立っている。 その隣には知夏もいる。二人の手は、指を絡めるようにしっかりとつながれている。 私は二人の握り合った手に目を落とし、ただ黙って見つめた。 そこでようやく、湊は知夏の手を離した。整った眉を、わずかに不機嫌そうに寄せた。 「彩良、そんな目で見るな。知夏はお母さんに会いたくて急いできたんだ。その途中で足をひねったから、支えてただけだ」 そう言うと、湊はその場にしゃがみ込み、知夏の靴と靴下を脱がせ、足首の具合を見た。その手つきは、あまりにも優しかった。 「腫れてなくてよかった。でも油断はできないな。あとで医者にちゃんと診てもらおう。きっと何か薬を使ったほうがいい」 目の前の光景を見つめながら、私は指先を手のひらに食い込ませた。 去年、私は浴室で滑って転び、すねの骨を折った。3か月も杖をついていたのに、湊は一度も「痛くないか」と聞いてくれなかった。 私は、自分に言い聞かせていた。 彼はただ、人を気遣うのが苦手なだけだと。 けれど今になって分かった。 人を気遣えないんじゃない。 私を気遣う気がないだけだった。 知夏は湊の肩に寄りかかり、かすかな声で言った。 「私は大丈夫よ。お義母さんに、最後に会いに来たんじゃなかったの?」 「ああ。知夏が言ってくれなかったら、危うく忘れるところだった」 湊は焦る様子もなく知夏に靴と靴下を履かせ終えると、ゆっくり立ち上がった。それから私を見た。その声には、さっきまでの温もりなどもうない。 「お母さんは?俺に会いたいって言ってたんじゃないのか?」 母は病床に横たわっている。 湊から、わずかな距離しかないのに、見えていないかのように口にした。 そこに看護師が入ってきて、母の顔まで白い布をかぶせた。 湊の眉がわずかに寄り、声も少しだけ和らいだ。 「俺だって、できるだけ急いで来た」 知夏が一歩前へ出た。 「奥さん、湊さんを責めないでください。彼は……」 「じゃあ、誰を責めればいい?あなたなの?」 私に問い詰められ、知夏はうつむいたまま、もごもごと口を動かすだけで、何も言えなかった。 湊は知夏を背中にかばうようにして、眉間にしわを寄せた。 「お母さんが亡くなったのは知夏のせいじゃないだろ。彼女を責めるな」 湊は私に知夏を責めるなと言い、知夏は私に湊を責めないでと言った。 ――じゃあ、私は誰を責めればいい? 考えて、考えて。結局、責められるのは自分だけだ。 人を選び間違えた、自分を。 あの頃の湊は、とても貧しかった。母は、私たちが付き合うことに必死で反対していた。 「男はね、何も持ってないときにあなたを選ぶのは、あなたしか選べないからよ。お金を持つようになれば、人は変わる」 母が私を訪ねてきた、あの夜。 私と湊は家賃を3か月も滞納していて、玄関の鍵を取り替えられ、荷物まで外に放り出されていた。 母は私の腕をつかみ、一緒に帰ろうとしたが、私は頑なに母の手を振りほどいた。 湊の隣に立ち、指を絡め、手をつないだ。 「湊は私に優しいし、責任感のある人なの。他の人とは違う。絶対に変わらないよ!」 そう、母に言った。 今、湊は私の向かいに立ち、背後には別の女をかばっている。 ――他の人と何も違わない。 彼はやっぱり変わった。 第2話 母が病室から運び出されたとき、湊の横を通り過ぎた瞬間、突然風が吹いた。 白い布がふわりとめくれ、知夏の目に母の顔が入った。 「きゃっ」 悲鳴を上げた知夏は、そのまま湊の胸へ身を縮めた。 「湊さん、死んだ人って怖い……」 湊は知夏の頭をそっと撫で、なだめるように言った。 「大丈夫、俺がいるから」 ぼんやりして、私は5年前に戻ったような気がした。 家賃3万円の、エレベーターもないボロアパの最上階に住んでいた。 飛び出してきたネズミに驚き、私は湊の胸へ逃げ込んだ。 あのときも、湊はこうして私を抱きしめ、頭を優しく撫でながら言った。 「大丈夫、俺がいるから」 5年後、同じ仕草と同じ言葉。 でも、その腕の中にいるのは、もう私じゃない。 目の奥が、じわりと熱くなった。 看護師が一枚の紙を私に差し出した。 そこには、死亡診断書をもらうところから、火葬、納骨までの手続きが書かれている。 「ご家族はあなただけですか?」 私は湊を見て、思わず「夫もいます」と言いかけた。 でも、彼と知夏が抱き合うように寄り添っている姿を見た瞬間、喉の奥からこみ上げた苦いものに、言葉を飲み込んだ。 看護師は私を見て、ため息をついた。 「これだけのことをお一人でやるのは、なかなか大変ですよ」 少し間を置いて、そばにいる湊と知夏へ目を向けた。 「このカップルはお友達でしょう?少し手伝ってもらったらどうですか?」 私は訂正する気にもなれなかった。 湊も何か言いかけて口を開き、そして閉じた。それが、黙って認めたということだ。 看護師が母を乗せて病室を出ていくと、残されたのは私たち三人だけになった。 静まり返った病室には、窓の外から吹く風の音まで聞こえる。 「痛っ」 知夏が小さく声を上げ、その場にしゃがみ込んだ。足首を押さえた目には、涙が滲んでいる。 「また痛むのか?」 湊もすぐにしゃがみ込み、心配そうに知夏を見た。 「俺が医者に連れていく」 知夏は首を横に振ったが、涙は今にもこぼれそうに揺れている。 「我慢すれば平気だから。奥さんと一緒に、お義母さんのことを済ませてあげて」 湊は顔を上げ、私を見た。少しの間を置き、口を開いた。 「知夏の足首の捻挫は放っておけない。俺が付き添わないと心配なんだ。お母さんのことは、秘書に手伝わせる」 知夏が足首をひねったら、湊は自分で付き添わなければ気が済まない。 なのに、私の母のことは、秘書に任せればいい。 そう言うと、湊は知夏をお姫様抱っこにして病室を出ていった。 数歩進んだところで、ふと立ち止まり、振り返った。 「何か手伝ってほしかったら電話してくれ」 私はうなずいた。 「うん」 湊が知夏を抱いたまま廊下の先へ消えていくのを見届けてから、私は一本の電話をかけた。 「離婚届と離婚協議書の準備をお願いします」 これらの書類は、湊本人が署名しなければならない。 病院での最後の手続きを終え、私は廊下の椅子に腰を下ろして、少し足を休めた。 少し離れたところから、誰かの話し声が聞こえてきた。 「本当に幸せねえ。息子さんが1階から8階まで背負ってくれたんでしょう?うちの息子なんて、ご飯だって作ってくれないわ」 「何言ってるの。息子じゃなくて娘の夫。娘がこんな立派な人と縁を結んでくれたおかげよ」 気になって、私は声のするほうへ目を向けた。 何人かの年寄りが集まって話している。そのうち一人を、若い二人が左右から支えている。 その二人のうち一人は、湊。もう一人は、知夏だ。 年寄りの一人が、知夏の母親・七井真紀子(なない まきこ)へ羨ましそうな目を向けた。 「なんだ、娘さんの旦那さんなのね。息子だってここまでしてくれるとは限らないのに。こんな親孝行な旦那さんを娘さんが見つけたんじゃ、本当に幸せよ」 ――幸せ? 母が終末期だった頃、ストレッチャーから検査台まで、誰かが母を背負わなければならなかった。 ほんの数メートルの距離なのに、湊は背負おうとしなかった。その代わりにヘルパーに電話をかけ、来るのを待っていた。 その間、医者に急かされた。 「お急ぎください。次の方の順番が回ってしまいますので」 2時間も並んで、やっと検査の順番が回ってきた。 後ろにはまた長い列ができていた。 「すみません。すぐに準備します」 私は歯を食いしばり、母を背負い上げた。けれど力が足りず、母と一緒に床へ倒れ込んだ。 湊はまるで恥をかかされたように、顔を真っ赤にした。 「ヘルパーを待ってくれって言ったのに、無理して。これで満足か?」 そう言い捨てると、恥ずかしさから逃げるように、背を向けて立ち去った。 ほんの数メートルの距離でさえ、背負おうとしなかった。 なのに、8階までの道のりなら、喜んで背負った。 一人は私の母で、もう一人は知夏の母親だから。 自分の夫だと勘違いされた湊を前に、知夏は恥ずかしそうに笑い、湊も笑ってそれに応じている。 けれど、私の姿を見つけたその瞬間、湊の顔から笑みが一気に消えた。 こちらへ歩いてきて、探るように尋ねた。 「……全部、聞いたのか?」 「何を?知夏が母親のために、こんなにも親孝行な夫を見つけたって話?」 湊の顔が、見る間に冷たくなった。 「彩良、ただの年寄りの冗談だろ。そんな嫌味ったらしく言う必要があるのか?」 知夏は真紀子を支えながらこちらへやってきた。真紀子がちらりと私を見た。 それから湊に視線を向けた。 「この人は?」 「俺の……」 知夏がわざとらしく咳をして湊の言葉を遮り、目で合図を送った。 湊は知夏を見て、それから私を見た。 しばらくして眉間に深いしわを寄せ、視線をそらした。 「俺の、知り合いだ」 そう言うと、湊は慌てたように真紀子を連れて、その場を離れていった。 そのとき、スマホが震えた。 弁護士から、離婚の書類の準備が終わったという連絡だ。 ――湊、私たちはもうすぐ、「知り合い」ですらなくなる。 第3話 スマホがまた震えた。湊からメッセージが届いた。 【あとでちゃんと話す】 夜、家に帰ると、玄関の靴箱に見覚えのないレディーススニーカーが二足増えていた。 私のスリッパは靴箱から押し出され、片方がもう片方に重なっている。 知夏はソファに体を丸め、オレ様社長ものの恋愛ドラマを見ていて、湊は彼女の足首を揉んでいる。 知夏がイチゴを一粒つまみ、湊の口元へ運んだ。 「湊さん、すごく上手ね。もしかして習ったことがあるの?」 ――そう。湊は習ったことがある。 3年前、大きな契約をまとめるため、私はハイヒールを履いたまま取引先と山を登った。 契約は取れた。湊の会社もどうにか息を吹き返した。その代わり、私の足首は半月も腫れた。 湊は目を真っ赤にして、わざわざ足を揉む方法を習ってくれた。 毎晩、眠る前になると、私の足を自分の下腹に乗せ、足首を揉んで腫れをひかせ、硬くなった筋肉をほぐしてくれた。 あの頃、私は冗談めかして言ったものだ。 もし起業に失敗しても、湊ならマッサージ師になれるね、と。 すると湊は頑固なほど真剣な顔で言った。 「この揉み方は彩良のためだけに覚えたんだ。彩良にしかしてやらない」 けれど今は目の前で、湊が夢中になって誰かの足を揉んでいる。彼の下腹に乗っている足は、もう私のものじゃない。 ベランダから風がひと筋吹き込んできた。強い風ではない。服の裾すら揺らさないのに、妙に冷たかった。 「風が吹いてきた。ブランケットを持ってくるから掛けておきな。風邪ひくぞ」 湊が立ち上がり、私に気づいた瞬間、ぴたりと動きを止めた。 けれどすぐに平静を取り戻し、顔を曇らせた。 「いつ入ってきた?どうして歩く音がまったくしないんだ?」 私は二人のすぐそばに、もう5分も立っていた。湊はこんな小さな風には気づくのに、そこにいる私には気づかなかった。 私はまっすぐ書斎へ向かい、湊もあとを追うように入ってきた。その身から、クチナシの香りが漂ってきた。 知夏の香水の匂いだ。 私が尋ねるより先に、湊が口を開いた。 「ホテルに泊まるより、やっぱり自分の家のほうが気楽だろ。だから、あの二人には何日かここに泊まってもらうことにした」 「自分の家って?」 湊は見下ろすように私を見て、まるで私が理不尽に文句をつけているかのような顔をした。 「彩良、そうやって言葉尻ばかりとらえて、何がしたいんだ?」 ――どうせ離婚する。今さらこんなことにこだわったって、意味なんてない。 「別に」 私がそう言うと、湊は私が納得したと思ったらしい。ほっと息をついた。 「お母さんのことは、どうなった?」 湊が知夏を抱えて病室を出てから、もう15時間が過ぎていた。ようやく母のことを思い出したらしい。 「明日は母の――」 「お母さん、どうしたの?」 書斎の扉は閉めていなかったため、廊下から知夏の声が流れ込んできた。 「明日は母のお通夜」 私は続けたが、返ってきたのは、プリンターが紙を吐き出す、さらさらという音だけだ。 真紀子に何かあったらしい。湊は私の言葉が終わるのも待たず、書斎から飛び出していった。 しばらくしてプリンターの音が止まり、離婚協議書の最後の一枚が吐き出された。 私はホチキスでまとめ、署名が必要なところを開いた。 ペン先を署名欄の上でしばらく止めたあと、それでも自分の名前を書き込んだ。 それから離婚届にも署名した。 書斎を出ると、真紀子が腰を折って、苦しそうに吐いているのが目に入った。 湊はタオルで、真紀子の口元についた吐しゃ物を拭いている。 胸の奥が、何かに引き裂かれるように痛んだ。 最後に母と一緒に食事をしたとき、病気のせいで母はうまく飲み込めず、流動食が誤って口元からこぼれた。 湊は何も言わなかったが、嫌悪を滲ませたあの目つきは、思い出すたびに胸を刺し、私はいたたまれなくなる。 「うっ……」 真紀子はまた吐き出した。湊はよけきれず、手にもかなりかかってしまった。 それでも怒ることも嫌な顔をすることもなく、優しく声をかけた。 「お腹が冷えたんでしょう。吐いたら少し楽になりますから」 なんて心を打つ光景なんだろう。湊が私の夫じゃなければ。 私は振り返って書斎を見た。 離婚協議書と離婚届が、机の上に静かに置かれている。 ――もういい。あとは、署名をもらうだけなのだから。 第4話 私は玄関へ向かって歩き出した。そのとき、床に落ちていた白いドレスが目に入り、足がその場に縫いつけられたように止まった。 胸元のクローバーの刺繍は母が自分の手で縫ったものだ。私が見間違えるはずがない。 結婚したとき、母が一針一針、心を込めて縫ってくれた挙式に着る衣装だった。 それが今、床に投げ捨てられ、真紀子の吐しゃ物まみれになっている。 私は歩み寄り、ドレスを拾い上げ、付着したものを振り落とした。 そして湊を睨みつけ、震える声で言った。 「これ、どういうこと?」 湊は私を見つめ、困惑したような顔をした。 「私です」 知夏は体を小さく縮め、いかにも無実だと言わんばかりの顔をした。 「母が床に吐いちゃったら、あとで掃除するのが大変だと思って、そこに敷くものを探したんです。ちょうど古い服があったから…… こんなに古かったから、もう誰も使わないものだと思って……弁償できますから」 「弁償するって、どうやって?」 母はもういない。この白いドレスだけが、母が私に残してくれた最後の形見だった。 ――知夏は弁償すると言ったが、どうするつもりなのだろう。 私は知夏に問いかけながら、自分自身にも問いかけている。 知夏は振り返ってカバンを探り、戻ってくると、1万円札を何枚か私の手に押しつけ、いかにも傷ついた顔をした。 「そんなに古くてボロボロなんだから、ホームレスにあげたって嫌がるくらいですよ。これだけあれば新しいのが何着も買えるでしょう?これでいいですよね?」 頭に血が一気に上った。私はお札を知夏の顔へ叩き返した。 「それは母が一針一針、心を込めて作ったものなの!嫌がられるようなボロじゃない!」 知夏は頬を押さえ、涙をぽろぽろこぼし始めた。 「もういい」 湊は顔を強張らせた。 「彩良、たかが古い服だろ。知夏はちゃんと弁償したんだ。それなのに、いつまでしつこく言い続けるつもりだ?」 「言うよ!」 私は湊を見つめ、一語ずつ言った。 「聞いたでしょ。それは母が私に残してくれた形見なの。お金なんて買えられない。古い服なんかじゃない」 湊は鼻で笑うように言った。 「人はもう死んだんだ。形見だのなんだの――」 パシン。湊のその先の言葉は、私の平手打ちで途切れた。 手を出したのは私なのに、全身が震えている。 真紀子が歯をむき出しにして、私を殴ろうとした。 「よくもうちの湊くんを叩いたね。許さないよ!」 けれど私から少し離れたところで、真紀子は突然倒れ、頭をテーブルの角にぶつけた。 「お母さん!」 知夏が慌てて駆け寄り、抱き起こそうとした。 私は腰に、ものすごい力で突き飛ばされた。 次の瞬間、耳元で湊の怒鳴り声が炸裂した。 「彩良!年上の人にまで手を上げるのか。お前の母親は、そんなことをするように育てたのか?」 私は勢いよく後ろへ倒れ込み、後頭部に鋭い痛みが走った。 しばらくすると、目の前の景色までぼやけていった。 湊は一度も振り返らなかった。 やがて視界がはっきりしてきたとき、リビングに残っていたのは私一人だ。 それでも耳の奥では、湊の最後の言葉が何度も響いている。 母は、年上の人に手を上げるようなことを私に教えたことはない。 ただ、女に手をあげるような男だけは絶対に選んじゃいけないと、教えてくれた。 5年前、私は母の言葉を聞かなかった。 でも今度こそ、母の言うことを聞こうと思う。 3日後、母の告別式と火葬が終わってから、私はまっすぐ空港へ向かった。 搭乗を待っていると、湊からメッセージが届いた。 【幸い、真紀子さんの怪我は大したことなかった。俺が彩良のために何度も話しをつけて、ようやく責任は問わないって言ってくれた。今から病院へ来て謝れば、これで終わりにできる】 そのメッセージを見て、私は自嘲するように笑った。 そして、こう返した。 【湊、これからはもう、私のために何かしてくれなくていい。離婚届と離婚協議書は書斎の机の上に置いてある。もう私の署名は済ませた】 空港のアナウンスが、搭乗を促している。 私は立ち上がり、荷物を引いて飛行機に乗り込んだ。 数時間後、着陸してスマホの電源を入れた。 そこには、びっしりと並んだ大量の着信履歴とメッセージが、狂ったように押し寄せていた。

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