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もう、夫のために辛いものを我慢しない!
北州から東都へ嫁いで7年、浅野尋(あさの ひろ)と私・浅野寧々(あさの ねね)は、食の好みがまるで合わなかった。 私は辛いものが大好きなのに、尋は辛い匂いがするだけで箸を置く。 一度、家でかなり辛めの辛味噌鍋を作ったときなんて、尋は食器を投げ出し、それから1か月も私と口をきかなかった。 それ以来、私は辛いものをやめ、味気ないほど薄味の食事にもいつしか慣れた。 7年間、ずっとそうしてきた。 あれは、誕生日のことだった。夕食の買い物を済ませて家へ帰る途中、激辛で有名な鍋料理の店から漂ってくる香りに、思わず足が止まる。 店の中に、若い女性と向かい合って座っている尋を見つけたのだ。しかも、二人の前では、真っ赤な鍋がぐつぐつと煮えていた。 尋は額に汗を浮かべながら、彼女が口元へ運んだ料理を慣れた様子で食べている。 唇が腫れるほど辛そうなのに、それでも嬉しそうだった。 ガラス越しに二人を見つめながら、私は漂ってくる唐辛子の香りに初めて吐き気を覚えた。 なんだ。尋は辛いものが食べられなかったんじゃない。私のためには、食べようとしなかっただけなんだ。
チャプター (1)
第1章
北州から東都へ嫁いで7年、浅野尋(あさの ひろ)と私・浅野寧々(あさの ねね)は、食の好みがまるで合わなかった。
私は辛いものが大好きなのに、尋は辛い匂いがするだけで箸を置く。
一度、家でかなり辛めの辛味噌鍋を作ったときなんて、尋は食器を投げ出し、それから1か月も私と口をきかなかった。
それ以来、私は辛いものをやめ、味気ないほど薄味の食事にもいつしか慣れた。
7年間、ずっとそうしてきた。
あれは、誕生日のことだった。夕食の買い物を済ませて家へ帰る途中、激辛で有名な鍋料理の店から漂ってくる香りに、思わず足が止まる。
店の中に、若い女性と向かい合って座っている尋を見つけたのだ。しかも、二人の前では、真っ赤な鍋がぐつぐつと煮えていた。
尋は額に汗を浮かべながら、彼女が口元へ運んだ料理を慣れた様子で食べている。
唇が腫れるほど辛そうなのに、それでも嬉しそうだった。
ガラス越しに二人を見つめながら、私は漂ってくる唐辛子の香りに初めて吐き気を覚えた。
なんだ。尋は辛いものが食べられなかったんじゃない。私のためには、食べようとしなかっただけなんだ。
第1話
尋が帰ってきたとき、私は辛味噌鍋に肉を入れていた。
鍋の素は、母がわざわざ北州から送ってくれたもので、牛脂たっぷりの激辛。
この7年間、尋が辛いものを嫌うから、いつも棚の奥にしまい込んでいた。
そして賞味期限が切れるたび、捨てていた。
でも今日は、どうしてもこの味が恋しかった。
玄関を開けた尋は、部屋に漂う辛い匂いに気づくなり顔をしかめる。
「俺が辛いもの食べないって知ってるだろ。早く捨ててくれ。匂いだけで気持ち悪い」
結婚してから7年、尋はずっと辛いものは受けつけないと言っていた。
母が北州から唐辛子と山椒で煮込んだ郷土料理を送ってくれたときも、唐辛子が入っていると分かった途端、尋はそのままゴミ箱へ捨てた。
それどころか、私が一度、辛味噌鍋を作ったときには、その日のうちに鍋も食器も全部新しいものに買い替えた。
だから、私はずっと、彼が本当に心の底から辛いものが嫌いなのだと思っていた。
だから尋に合わせて、7年間ずっと自分の好みを我慢してきた。
でも今日、別の女性と激辛で有名な鍋料理店で食事をしている姿を偶然見て、ようやく分かった。
彼は辛いものが食べられないんじゃない。私とは食べたくなかっただけ。
尋の言葉が聞こえなかったふりをし、私は鍋から肉を一枚取り、取り皿に入れた。
尋が眉間にしわを寄せた。
「寧々、聞いてるのか?」
私は顔も上げずに答える。
「今日、私の誕生日だよ」
去年の今日、ケーキのろうそくを吹き消す前に、私は一つ願い事をした。
「来年の誕生日だけでいいから、尋と一緒に家で辛味噌鍋が食べたい」
尋は露骨に嫌そうな顔をしたけれど、それでも了承してくれた。
でもそのあと、私は尋に悪いと思って願い事を変えた。
「じゃあ来年の誕生日は、一日中一緒にいてほしい」
今日は、その願いが叶うはずの日だった。
それなのに、尋は私と一緒にいてくれなかったどころか、好きなものさえ食べさせてくれない。
去年の自分を思い出すと、思わず笑いが漏れた。
その拍子に唐辛子でむせ、涙が止まらなくなる。
尋も去年のことを思い出したらしく、険しかった表情が少し和らぎ、気まずそうに目を逸らした。
そのとき、尋のスマホが鳴った。
若い女性の声が聞こえてくる。
「尋さん、激辛で有名なラーメン屋さんを見つけたの。すっごくおいしそうだから、今から一緒に行かない?」
明るく甘えるような声で、断られるなんて少しも考えていないような口ぶり。
そして実際、尋は断らなかった。
迷うことさえなく、すぐに玄関へ向かう。
「待ってろ。今から行く」
彼は電話の向こうにそう告げた。
ドアを開ける直前、彼は足を止めて言い放つ。
「食べ終わったら片づけることを忘れるなよ。消臭剤も多めに撒いといて」
結婚して7年、尋が私に家で辛いものを食べるのを許したのは、これが初めてだった。
でもそれは、別の女性のところへ行くために。
胸の奥にかろうじて残っていたものが、静かに冷えていく。
私は尋が出ていくのを見届けてから、スマホを手に取った。そして、弁護士へ電話をかける。
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「先ほどお話しした離婚協議書ですが、今夜から作成をお願いします」
私は夜の12時まで、一人で鍋を食べた。
尋は帰ってこなかった。
代わりに、彼のSNSが更新される。
【君と食事をする夜は、夜風まで暖かい】
添えられていたのは、女性が尋に激辛ラーメンを食べさせている写真だった。
その下には、私たち共通の友人からコメントがついていた。
【尋、お前辛いものダメだっただろ?とうとう寧々に鍛えられたか?】
尋はこう返信していた。
【たまには違う味も悪くない】
違う味、か。
その言葉を頭の中で繰り返して、私は笑いそうになった。
付き合って3年。私は尋のために北州を離れて東都へ来た。その間、彼は「違う味」を試そうなんてしなかった。
第2話
結婚して7年。毎日の食事を尋の好みに合わせていたから、キッチンの唐辛子には埃が積もった。それでも、彼は「違う味」を試そうとはしなかった。
それが今になって、たった一言。「違う味も悪くない」そんな言葉が、裏切りの言い訳になるらしい。
私はその写真を開き、保存した。
もう一度画面を更新すると、投稿は消えていた。
ようやく私に見られないよう設定することを思い出したらしい。
尋とのトーク画面を開く。
【隠さなくていいよ。もう見たから】
そう送ろうとして、手が止まった。最後のやり取りは一昨日だった。
私の地元である北州風の辛味噌鍋店のオープン記事を送り、【最近地元の料理が恋しくなっちゃった】とのメッセージも添えていた。
でも、尋から返ってきたのは、一言だけ。
【気持ち悪い】
そして今日、尋は別の女性とその味を楽しんでいた。
画面を見つめているうちに、笑いが漏れた。
自分が惨めで仕方ない。
10年という時間に、故郷まで捨てて手に入れたのがこれだった。
そのとき、母から電話がかかってきた。
「寧々、前に送った唐辛子と山椒で煮込んだあのお肉食べた?美味しかった?
東都じゃ、なかなか地元の味は食べられないでしょ。また送ったから、明日届くよ。自分で温めて食べなさい。尋の好みにばっかり合わせてちゃだめよ」
母はしばらくあれこれ話したあと、ふと声を落とした。
「寧々。幸せじゃないなら、帰っておいで。お母さんがご飯作ってあげるから」
目の奥が熱くなった。込み上げるものをどうにか堪えながら、私は頷く。「うん」
爪が手のひらに深く食い込んだ。
電話を切ったあと、私は尋に電話をかけた。
いつ帰ってくるのか尋ねると、辛いものを食べたせいか、掠れた声が返ってきた。
「先に寝てて。友達といるから、待たなくていい」
直後、女性の声が聞こえた。
「ねえ、これも食べてみて。辛さ倍にしてもらったの」
「ああ」
そこで電話は切れた。
私はスマホを置き、すっかり冷えて固まった料理を見つめた。
母の言う通りだ。
私、本当にもう帰ったほうがいいかもしれない。
翌朝、私は早く起きて荷物をまとめると、それから法律事務所へ離婚協議書を受け取りに行った。
その帰り、尋の会社の前を通りかかったところで、昨日の女性と尋に出くわした。
私に気づいた尋が足を止める。
「寧々、どうしたんだ?」
ただ通りかかっただけで、すぐ帰るつもりだと説明しようとした。
けれどその前に、女性が私の前へ出てきて、にこやかな笑みを浮かべる。
「奥様だったんですね。私、尋さん……浅野さんの秘書をしている相沢玲奈です。初めまして。よかったら一緒にお食事しませんか?」
相沢玲奈(あいざわ れいな)は尋を見上げて尋ねる。
「いつもの激辛の鍋料理屋さんにする?」
「尋は辛いもの食べないよ」
反射的に口から出た。
尋の指先がわずかに強張り、表情が変わる。
玲奈も私を見た。彼女の目に一瞬、何とも言えない色が浮かび……そして笑った。
「それは、前の話ですよ」
さらりと告げられた一言に、胸を強く掴まれたような息苦しさを覚えた。
そうだ、あれは前の話なのだ。
今の尋は辛いものを食べる。それどころか、喜んで食べているのだから。
私は何も言わず、二人について店へ入った。
注文する際は玲奈がメニューを受け取った。
そして、鍋の味を指差す。「尋さんは鶏出汁が好きだから、いつもこの味を頼むんですよ」
北州の実家へ尋と帰省したときのことを思い出した。母の得意料理のひとつに、鶏出汁と唐辛子や山椒をたっぷり使った鍋料理がある。
あの頃の尋は一口食べただけで、「舌が痺れる。まずい」そう言っていた。
なのに今は、笑顔で頷いている。「ここのは火の通し方がちょうどいいんだよな」
玲奈はさらに激辛なサイドメニューを注文すると、尋を見て笑った。
「この前なんて唇が腫れるくらい辛かったのに、おいしいって意地張ってたよね。私と食の好みが合わないのが嫌だったの?」
尋はちらりと私を見た。それから声を落として答える。
「玲奈に合わせただけだよ」
二人の掛け合いを前に、私は相席させられた他人のようだった。
ふと玲奈がメニューを私に差し出してくる。
「奥様も、お好きなものをどうぞ」
私が口を開こうとすると、尋が先に言った。
「寧々は何でもいいから、気にしなくていい。寧々には……」
そこで言葉が止まった。
尋はメニューの上で指を止め、眉を寄せる。
「……寧々って、何が好きだったっけ?」
私は俯いたまま、目の前のスープを静かにかき混ぜた。立ち上る湯気で、視界がぼやける。
「私、辛いものが好きだよ……」
「辛くない料理を二品お願いします」尋はメニューを閉じ、店員に渡した。「彼女は薄味が好きなので」
尋は最後まで、私を見ることはなかった。
第3話
玲奈だけが、首元の三日月形のネックレスに触れながら小さく笑った。
ほんのわずかな笑い声だったのに、私にはひどく重く響いた。
私はすっと立ち上がる。
「私、薄味が好きなんじゃないよ。辛いものが好きなの」
尋が一瞬固まり、驚いたように私を見る。
私はその顔を見ず、バッグを手に取った。
「二人で食べて。私、用事があるから先に帰るね」
そう言ってから、私は少しだけ足を止め、尋を見る。
「今日はちゃんと帰ってきて。話があるから」
離婚のことを、もうはっきりさせなければならない。
午後はずっと家で荷造りをしていた。
必要なものをまとめ、送る荷物は先に発送する。
そんな作業の最中、10年前の古いDVDが出てきた。
充電して再生してみると、当時の映像が流れ出した。
画面の中では、まだ若かった尋が北州の街角に座っていて、目の前には唐辛子がたっぷり入ったラーメンが置かれている。
尋は汗だくになりながら、それでも箸を止めずに食べていた。
私はティッシュで彼の汗を拭きながら、呆れたように言っている。
「ねえ、尋。辛いの苦手なんだから、そんなに無理しなくてもいいんだよ」
尋は口元を拭い、眩しいくらいの笑顔を見せた。
「仕方ないだろ。北州出身の嫁をもらうんだから。
それに、寧々の料理があんなに辛いのに、今から慣れとかないと一生付き合えないだろ?」
辛さに息を吐きながら、私のほうへ器を押してくる。
「一口食べてみろよ。これ、めちゃくちゃうまい」
あの頃の風には、唐辛子の香りが混じっていて、尋の髪を揺らしながら吹くその風に、私の心まで柔らかくほどけていったことを思い出す。
私は、その映像を何度も繰り返し見た。
ぼんやりしているうちに、尋が帰ってきた。
玄関で上着を脱ぎ、私の手元にあるDVDを見るなり足を止める。
「それ、どこから見つけたんだ?」
上着も片づけないまま、すぐにこちらへ来た。顔には懐かしそうな笑みまで浮かんでいる。
「これ、10年前のだろ。まだ付き合い始めたばっかりで……」
途中で言葉が止まった。
視線はモニターの上にある。
そこでは、20歳の尋が笑いながら――一生、寧々と辛いものを食べられるようになる。そんなことを言っていた。
尋の喉が小さく動いた。
その瞬間、彼がようやく何かを思い出したように見えた。
昼間の気まずいやり取りなのか、それとも、昔の自分なのか。
しばらく黙ったあと、尋はポケットから小さなジュエリーケースを取り出した。
「誕生日おめでとう。本当は昨日渡すつもりだったんだけど、忘れてた」
私は少し驚きながら受け取った。
こんな状況でも、誕生日プレゼントを用意していたことが意外だったのだ。
けれどケースを開けた瞬間、胸の奥がまた冷えた。中に入っていたのは、玲奈がつけていたものとまったく同じネックレス。
これは何なのだろう。
埋め合わせ?それとも施し?
私は何も言わず、ただ尋を見た。
尋は少し言いづらそうに視線を逸らした。
「玲奈に勧められたんだ。今流行ってて、若い子に人気らしい。
昼のことは気にするなよ……俺はあいつのこと、妹みたいに思ってるだけだ。俺たちもう10年も一緒にいるんだぞ。それでも俺のこと信じられないのか?」
10年だ。
人生に、あと何回10年があるのだろう。
10年前、私は尋のために迷うことなく北州を離れ、東都へ来た。
そして10年後。やっぱり尋がきっかけで、今度は自分を縛っていた結婚を手放すことにした。
私はネックレスから視線を逸らした。
すると尋が肩を抱いてくる。
「来週、会社のパーティーがあるんだけど、社長は家庭円満な人をすごく評価するタイプでさ。
寧々、その日は少し協力してくれないか。俺が昇進できるかどうか、この一回にかかってるんだ」
彼は期待するように私を見る。
私は心の中で自嘲した。
こんな心のこもっていないプレゼントにさえ、最初から打算がついていたらしい。
「分かった」
淡々と返し、私は箱を閉じた。
「……え?いいのか?」
私があまりにもあっさり返事をしたからか、尋は驚いたあと、嬉しそうな顔をした。
明らかにほっとした様子で、私を抱きしめようと手を伸ばす。
「寧々、ありがとう。このチャンスを俺はずっと待ってたんだ。
昇進したらちゃんと埋め合わせする。辛味噌鍋を食べたいって言ってたよな。どれだけ辛くたって、全部付き合うから」
尋の目にはうっすら涙まで浮かんでいて、まるで10年前の、私を大切にしてくれていた尋に戻ったようだった。
私は静かに微笑んだ。
そしてバッグから離婚協議書と離婚届を取り出し、尋の前へそっと差し出す。
「勘違いしないで。分かったって言っただけで、パーティーに一緒に行くとは言ってないから。
あなたの昇進なんて、私には関係ない。尋、離婚しよう」