脳腫瘍と診断された私に、夫はあまりにも冷酷だった

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脳腫瘍と診断された私に、夫はあまりにも冷酷だった

GoodNovel 完結

彼がどん底にいたあの年、私は何も告げずに姿を消した。 やがて成功をつかんだ彼は私を強引に妻にした。 私たちの恋はネットで話題になり、誰もが羨ましがった。 彼は私に夢中なのだとみんなが言っていた。 けれど、やがて彼は私たちのベッドで、次々と別の女を抱くようになった。 羨望の的だった私は、一転して汐見市で一番の笑いものになった。 それでも騒ぐことはせず、それからは書斎で寝るようになった。寝室は彼と、彼の不倫相手たちに譲った。 彼は逆上し、私の首を乱暴に締めつけた。唇にまで噛みつかれ、血がにじんだ。 「どうして怒らないのだ?!」 だって、私は病気だから。 彼の心が戻ってくる日まで、もう生きてはいられない。

チャプター (1)

第1章

彼がどん底にいたあの年、私は何も告げずに姿を消した。 やがて成功をつかんだ彼は私を強引に妻にした。 私たちの恋はネットで話題になり、誰もが羨ましがった。 彼は私に夢中なのだとみんなが言っていた。 けれど、やがて彼は私たちのベッドで、次々と別の女を抱くようになった。 羨望の的だった私は、一転して汐見市で一番の笑いものになった。 それでも騒ぐことはせず、それからは書斎で寝るようになった。寝室は彼と、彼の不倫相手たちに譲った。 彼は逆上し、私の首を乱暴に締めつけた。唇にまで噛みつかれ、血がにじんだ。 「どうして怒らないのだ?!」 だって、私は病気だから。 彼の心が戻ってくる日まで、もう生きてはいられない。 第1章 今日は、夫の九条朔也(くじょう さくや)と私、九条澪(くじょう みお)が結婚して二周年の結婚記念日。 そして、朔也が桜庭美羽(さくらば みう)と付き合い始めて、一年目の記念日でもある。 美羽は朔也の秘書だ。大学を出たばかりで、まだ初々しさが残っている。 まさに、彼の好きなタイプ。 私たちが結婚して一年ほど経った頃から、美羽は朔也に付き添い、いろいろな場所へ顔を出すようになった。 事情を知らず、彼女を九条夫人と呼ぶ知人までいる。 美羽が彼のそばにいる時間は少しずつ長くなっていった。まるで私の居場所などもうないかのように。 初めて美羽に会ったのは、朔也の誕生日だった。 私はいつものようにキッチンでケーキを焼いていた。 チン、という音が響いた瞬間、周囲の景色が変わり始め、私の身体も自分の意思では動かせなくなった。 我に返ったとき、私は車が行き交う道路の真ん中に立っていた。 白いズボンは泥だらけ。素足には、ガラスで切った傷があった。 自分の身体に何が起きたのか分からず、私は慌てて病院へ駆け込み、全身の検査を受けた。そこで、不治の病だと告げられた。 幸い、痛みはないらしい。 ただ、やがて物事がわからなくなり、記憶も消えていくという。もちろんつらかった記憶も、一緒に。 それなら、悪いことばかりではないのかもしれない。 家に戻ると、オーブンの中のケーキは真っ黒に焦げていた。 大きく息を吸って、もう一つ焼き直した。それを持って、朔也の会社へ向かった。 その頃の美羽は入社したばかりで、まだ研修中だった。 朔也は会議中で、私はケーキを抱えてラウンジで待っていた。 美羽は出入りするたび、私を上から下までじろじろ見た。 ガラス越しに美羽が同僚とひそひそ話す声が聞こえてきた。 「あんなくたびれた女が、九条社長の奥さん? 顔もスタイルも、私のほうが上じゃない?目が私と似てるだけで、あとは全然違うんだけど」 ガラスのテーブルに私の顔が映っていた。くすんだ肌に、こけた頬。 朔也が好きだと言っていたこの目も、すっかり疲れきっていた。 確かに、きれいとは言えない。 同僚が小声で美羽をたしなめた。 「ちょっと、やめなよ。張り合える相手じゃないでしょ? 社長が誰より大切にしてる人だよ。怒らせたら、ここで働けなくなるからね」 それが気に入らなかったのか、美羽はふんと鼻を鳴らした。 ほどなく、ラウンジの扉が開いた。 美羽がコーヒーを持ってきて、私に差し出した。 「朔也さんって、ひどいですよね」 言ってから、はっとしたふりで口元を押さえた。 「社長がプライベートではそう呼んでいいって。澪さん、怒りませんよね?」 私は笑って首を横に振り、温かいコーヒーをもう一口飲んだ。 「会議が終わったら、私からちゃんと言っておきますね。こんなに待たせるなんて、ひどすぎます。 この前、私と出かけたときも数分遅れてきたんです。そしたら、インスタに反省文まで載せてくれて」 そう言って、美羽は得意げにスマホを見せてきた。 【私、九条朔也は遅刻して、大好きな秘書を空腹のまま待たせてしまいました。 ここにお詫びし、二度と繰り返さないことを誓います】 美羽が笑うと、目が三日月のように細くなり、頬に二つのえくぼができた。愛らしくて、あどけない笑顔。 昔の私もこんなふうに笑っていた。 こんな子どもじみたことにも、朔也は付き合ってやるらしい。彼にとって、美羽はやっぱり特別なのだろう。 美羽が最初の不倫相手というわけではない。 朔也はいつも、違う女たちを次々と家に連れ帰って、私の目の前で抱き合ってみせた。そのたびに、私はどうにかなりそうだった。 けれど、どの女も二、三日で姿を消した。代わりに、また別の女がやってきた。 美羽だけは、違った。 二人はまるで仲のいい恋人同士だった。 一緒に出勤して、一緒に帰って、ご飯を食べて、買い物に行って…… 恋に浮かれて、ばかみたいなことばかりしている。 もしかしたら、本当に彼女のことが好きなのかもしれない。 私は美羽に笑いかけた。 「本当に、大事にされてるのね。 妻にしてくれないこと以外は、何もかも完璧ね」 美羽の笑顔が固まった。歯を食いしばり、今度は私に食ってかかった。 「あなたがいつまでも妻の座にしがみついてるからでしょ!そうじゃなきゃ、とっくに私と結婚してる! 全部、あなたみたいなくたびれた女が邪魔してるせいよ。少しは空気を読んで、さっさと離婚したら?そうすれば生活費くらい、多めに出してあげてもいいし……」 その必死さが何だかおかしかった。 朔也が美羽に何を吹き込んでいるのかは知らない。 でも、離婚を拒んでいるのは、私じゃない。 もう言い争うのもばかばかしくなって、ケーキを置いて帰ろうとした。 すると、美羽が吹き出した。 「そんな不格好なケーキ、よく持ってこられたわね」 私は眉を上げ、「そう」とだけ返した。 それがよほど気に障ったらしい。 扉を押そうとした瞬間、ぐいっと腕を引かれた。体が後ろに倒れた。 頭がテーブルの角にぶつかり、ガラスが砕けた。傷口からあふれる血が、止まらなかった。 第2章 物音を聞きつけた朔也が会議を放り出して駆け込んできた。 血だらけの私をちらりと見て、そのまま美羽のもとへ向かった。けがはないかと、何度も確かめていた。 美羽のふくらはぎにはガラスで切った細い傷ができてしまい、血がわずかににじんでいた。 朔也はハンカチを取り出し、そっと血を拭った。美羽を見る目がひどく優しかった。 「痛いか?」 美羽は涙に潤んだ大きな目を瞬かせ、今にも泣き出しそうに首を横に振った。 彼女の傷なんて爪の先ほどしかないのに、二人ときたら、まるで今生の別れみたいな空気を出している。 思わず鼻で笑うと、朔也がこちらを向いた。 私を見た瞬間、目に浮かんでいた憐れみが一瞬にして冷たい無関心へと変わり、声まで冷たくなった。 「澪、お前が美羽に何かしたのか!」 私は眉を上げ、皮肉っぽく笑ってうなずいた。 「自業自得でしょ」 朔也が何か言うより先に、美羽が声を張り上げた。 「好きな人を追いかけてるだけなのに、どうしてそんなこと言われなきゃいけないんですか! 朔也さんのこと、好きになっちゃだめなんですか?」 人の夫に手を出しておいて、誰に反対されても愛を貫くヒロイン気取りだ。 あんなに真剣な目をされては、私まで感動してしまいそうだ。 朔也は笑って美羽を抱き寄せた。 「誰にも俺たちを引き離させない」 朔也のことなら、嫌というほどわかっている。一目見ただけで分かった。今度は、本気なのだ。 ふと思い出したように、朔也が振り返った。 「何しに来たんだ」 私は床に落ちた、崩れたケーキを指さした。それ以上は何も言わなかった。 二人で交わした約束がある。 毎年朔也の誕生日には、私がケーキを焼く。 朔也は感情の読めない目で私を見つめ、声を落とした。 「澪。今年の願いは、お前が叶えてくれ」 私が姿を消していた間、彼が誕生日に願ったのは、私が帰ってくることだけだった。 結婚してからも、願いはたった一つ。私がもう離れていかないことだった。 それなのに今年は、美羽のために願いを変えた。 「美羽に謝ってくれ。それが今年の俺の願いだ」 彼の誕生日の願いに、初めて別の女の名前が出てきた。 耳鳴りがした。また周りの景色が変わり始めた。 手のひらに爪を食い込ませると、痛みで少しだけ意識がはっきりした。 私は何でもないように笑った。 「残念。その願いは、叶えてあげられない」 それだけ言って、背を向けた。 朔也。あなたの誕生日を祝えるのは、これが最後だと知ったら、少しは後悔するのかな。 どうやって家に帰ったのかは、もう覚えていない。 耳元がやけに騒がしかったことだけは覚えている。次に意識が戻ったときには、もう家にいた。 頭がぼんやりした。 時間を見ようとスマホを探し、部屋の隅々まで見ても、どこにもなかった。 結局、スマホは冷蔵庫の中にあった。 また悪くなったみたいだ。 薬を飲んでベッドに横になると、まぶたが重くなってきた。 寝よう。起きれば、きっと大丈夫。 私はそう自分に言い聞かせた。 うとうとしていると、誰かがベッドのそばに腰を下ろした気がした。 懐かしいコロンの香りがして、不思議なくらい安心した。 18歳のあの頃に戻ったような気がした。 私も朔也も高校を卒業したばかりだった。 二人とも行きたかった大学に受かった。けれど、うちは貧しかったうえに、弟の白石悠生(しらいし ゆうき)の学費も必要だった。 父の白石修司(しらいし しゅうじ)と母の白石絵里(しらいし えり)は、私を工場で働かせ、その給料を悠生の学費に充てるつもりでいた。 それを知った私は、こっそり家を抜け出した。朔也にしがみついて、声を上げて泣いた。 私の分まで勉強して、幸せになって、もっと広い世界を見てきてほしいと頼んだ。 朔也は何も言わず、私の背中を優しく叩いてくれた。 別れ際、両手で私の頬を包み、ゆっくり、はっきりと言った。 「俺を信じて」 泣きすぎて頭がぼうっとしていた私は、その言葉の意味がわからなかった。 その日から、朔也はぱったり姿を見せなくなった。 どんなに聞いて回っても、居場所がわからなかった。 大学が始まる前日、彼は突然、うちの玄関先に現れた。手には封筒が一つ。 中にはちょうど半年分の学費が入っていた。 工事現場で一日働いたって、せいぜい一万円ちょっとしか稼げない。この封筒のお金を稼ぐために、いったい何日も苦労したんだろう! 彼の手には、古い傷の上に新しい傷が重なっていた。手のひらはたこだらけで硬くなっていた。 私は力いっぱい彼の胸を叩き、泣きながら叫んだ。 「朔也のばか!何でこんなことしたの!この手をダメにしたらどうするの? 朔也には、もっと素晴らしい未来が待ってるのに!」 言えば言うほど涙があふれた。最後はしゃくり上げて、うまく言葉にならなかった。 「私なんかのために、そこまでしなくていいのに……」 朔也は笑って、私の目尻の涙を拭ってくれた。 「澪は、俺にとってそれだけ大事なんだよ。 澪のためなら、何だってする」 まっすぐな、熱のこもったまなざし。その目に宿る愛情が、私の人生を照らしてくれた。 あの日は朔也の誕生日だった。 私は家にあった食材で彼にバースデーケーキを焼いた。ケーキと呼ぶには不格好すぎる出来だったけど。 二人であの約束を交わしたのも、その日だった。 私は夢の中に浸り、目を覚ましたくないまま、うわごとのように彼の名前を呟いていた。 「朔也……」 「ここにいるよ」 うれしくて、頬が緩んで、ますます目を覚ましたくなくなった。 「誕生日おめでとう。一緒にろうそく、消そう」 第3章 食器がぶつかり合い、キッチンからガチャガチャと音がする。 重く痛む頭を揉みながらベッドを下り、様子を見に行った。 そこにいたのは、朔也だった。 朔也は、もう長いことこの家へ帰っていない。 彼は、美羽と別の家で住むようになった。だから、ここで暮らしているのは私一人になった。 ところが今、朔也はエプロン姿でコンロの前に立ち、慣れた手つきで野菜を切り、料理を作っている。 私の視線に気づいたのか、朔也は笑いながら近づき、くしゃりと髪を撫でた。 「手を洗ってこい。もうすぐできるから」 朔也の目には、確かに愛情が浮かんでいる。私はその手を払いのけ、鼻で笑った。 「朔也、もう芝居はやめて」 かつては誰よりもよく知る相手だったのに、今では一番遠い他人みたいだ。それでもまだ、私を深く愛しているふりをする。 本当に、気持ち悪い。 朔也は赤くなった手の甲を見つめた。口元に浮かんでいた笑みが、ゆっくりと消えていく。 冷蔵庫の前を通りかかったとき、扉に自分の姿が映った。 額には包帯が巻かれている。ぼんやりとそれを眺めてから振り返ると、食卓のケーキには、ろうそくが何本も立てられていた。 少し崩れてはいるものの、見間違えるはずがない。今日、私が会社へ持っていったケーキだ。 やっぱり、あれは夢ではなかった。 私が「誕生日おめでとう」と言ったから、朔也は崩れたケーキを直して持ち帰った。 一緒にろうそくを消そうと言ったから、キャンドルディナーまで用意してくれた。 今度は、いったい何の芝居をするつもりなのだろう。 喧嘩した恋人同士が、愛を確かめ合って仲直りする場面でも演じたいのか。 もう疲れた。自分を偽ることにも、朔也の芝居に付き合うことにも、うんざりだ。 私は食卓の料理を、腕で一気に床へなぎ払った。ケーキのクリームが床一面に飛び散り、かすかに揺れていたろうそくの火も完全に消えた。 朔也は目を真っ赤にして私を睨みつけ、手首を強く握り締めた。 「澪!お前、頭がおかしいんじゃないか!」 私は目を細めて笑った。 「そうよ。私は病気なの」 朔也は冗談でも聞かされたような顔をして、歯を食いしばりながら荒い息を吐いた。 でも、嘘はついていない。 「俺をもてあそんで、そんなに楽しいか?」 口の端を上げ、私はわざと笑ってみせた。 「ええ、楽しい。必死に私の機嫌を取ろうとして、惨めにすがりつくあなたを見るのが好きなの。 まるで犬みたいで」 その言葉は鋭い刃のように、朔也の胸を深くえぐった。 朔也は私を肩に担ぎ上げ、踵を返した。どれだけ殴って罵っても、びくともしない。 次の瞬間、私は食卓の上へ乱暴に放り出された。ドン、と大きな音が響く。 冷えたガラスの感触に、全身が震えた。 何かを証明しようとするかのように、朔也は私の胸元に何度も噛みついた。痛みに耐えきれず、小さな声が漏れる。 「朔也、あんたこそ頭がどうかしてる?」 ざらついた手がネグリジェの裾から入り込み、肌の上を探るように這う。朔也は私の顎をつかみ、無理やり目を合わせた。 その姿を見て、私は笑った。 「違う。頭がおかしいんじゃない。 あんたは根っから性根が腐ってるんだよ」 その一言で、朔也の理性の糸は完全に切れた。 首を絞めながら、目を真っ赤にして何度も問い詰めてくる。 「どうしてだ?どうして俺にこんなことをする? 俺は何年もお前を待っていた。それなのに、お前は一度も俺を振り返ろうとしない。 お前が一緒に誕生日を過ごすと言ってくれたとき、俺がどれだけうれしかったか、お前に分かるのか?」 朔也は傷つけられた子どものように、次から次へと涙をこぼした。 私は舌の先を噛んだ。口の中に広がる血の味に耐え、かろうじて涙をこらえた。 暗闇の中、私たちは互いの目を見つめたまま、一言も口にしなかった。 朔也は私の首元に顔を埋め、むさぼるように私の匂いを吸い込んだ。 長い沈黙のあと、かすれた声が耳元に落ちる。 「澪、俺たち……」 けれど、その先はスマホの着信音に遮られた。 美羽からだった。 朔也は一瞬もためらわず、すぐに電話に出た。 静まり返った夜の中、電話の向こうで泣く美羽の声だけが、やけにはっきりと聞こえる。 「朔也さん、私、一人だと怖いんです。帰ってきて、そばにいてくれませんか? 怖くて部屋から出られないんです。朔也さんに会いたい…… 朔也さん、もう私のこと、好きじゃないんですか……」 朔也は美羽をなだめながら、立ち上がった。 玄関を出ようとしたそのとき、ふいに振り返って私を見る。 「澪、本当に何も言うことはないのか?」 「いってらっしゃい」 朔也はもう足を止めなかった。大股で出ていき、扉を激しく閉めた。 朔也が何を聞きたかったのか、私には分かっている。 私がすがって、ここに残ってほしいと頼むのを待っていたのだ。 でも、朔也は忘れてしまったらしい。 以前は、こうして置き去りにされるたび、私は何度も懇願した。 「行かないで」 「一緒にいてほしい」 「仲直りしよう」 この三つの言葉を、私は数えきれないほど繰り返した。それでも返ってくる答えは、いつも同じだった。 「澪、いい加減に黙ってくれないか」 だから、望みどおり二度と口にしなくなった。 そして今は、もう言いたいとも思わない。

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