止まった秒針と、雨上がりの空

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止まった秒針と、雨上がりの空

GoodNovel 完結

結婚式まであと30日という時、瀬崎翔太(せざき しょうた)は突然、酒とタバコを辞めると言い出した。 将来生まれてくる俺たちの子供に、悪い習慣の影響を与えたくないからだと言う。 翌日、彼は郊外の療養所に入り、誰との面会も断るようになった。 私、森本結衣(もりもと ゆい)は彼を心配し、毎日弁当を作ってそこへ届けた。 私の顔を見ると決心が揺らいでしまうからと、彼は言う。 だから私は、いつも弁当箱を受付カウンターに置いて帰った。 23日間、1日も欠かすことはなかった。 ブライダルチェックの結果が出て、自分の妊娠が発覚するまでは。 私は一番小さなサイズのベビーシューズを買い、彼を驚かせようと療養所へ向かった。 受付のスタッフは宿泊者名簿を隅々まで確認した後、私を見上げて言った。 「お客様、当施設に瀬崎という宿泊者はおりません」 スマホの位置情報アプリを開くと、青い点は郊外ではなく、「ルナ産後ケアセンター」を示していた。 タクシーを拾い、その場所へ向かった。 彼は生まれたばかりの赤ん坊を抱きかかえ、優しくあやしていた。 「パパがここにいるよ、怖くないよ」 傍らにいた看護師が微笑みながら声をかけている。 「瀬崎さんは本当に良いお父様ですね」 彼は笑って答えた。 「仕方ないですよ、子供も彼女も俺を必要としていますから」 私はポケットの中の妊娠検査の結果を強く握りしめたまま立ち尽くし、結局、中には入らなかった。 その瞬間、ようやく理解した。彼は私に会えなかったわけではない。 単に、別の子供の父親になるのに忙しかっただけなのだ。 私はベビーシューズを入り口に置き、踵を返して人工妊娠中絶手術の予約を入れた。

チャプター (1)

第1章

結婚式まであと30日という時、瀬崎翔太(せざき しょうた)は突然、酒とタバコを辞めると言い出した。 将来生まれてくる俺たちの子供に、悪い習慣の影響を与えたくないからだと言う。 翌日、彼は郊外の療養所に入り、誰との面会も断るようになった。 私、森本結衣(もりもと ゆい)は彼を心配し、毎日弁当を作ってそこへ届けた。 私の顔を見ると決心が揺らいでしまうからと、彼は言う。 だから私は、いつも弁当箱を受付カウンターに置いて帰った。 23日間、1日も欠かすことはなかった。 ブライダルチェックの結果が出て、自分の妊娠が発覚するまでは。 私は一番小さなサイズのベビーシューズを買い、彼を驚かせようと療養所へ向かった。 受付のスタッフは宿泊者名簿を隅々まで確認した後、私を見上げて言った。 「お客様、当施設に瀬崎という宿泊者はおりません」 スマホの位置情報アプリを開くと、青い点は郊外ではなく、「ルナ産後ケアセンター」を示していた。 タクシーを拾い、その場所へ向かった。 彼は生まれたばかりの赤ん坊を抱きかかえ、優しくあやしていた。 「パパがここにいるよ、怖くないよ」 傍らにいた看護師が微笑みながら声をかけている。 「瀬崎さんは本当に良いお父様ですね」 彼は笑って答えた。 「仕方ないですよ、子供も彼女も俺を必要としていますから」 私はポケットの中の妊娠検査の結果を強く握りしめたまま立ち尽くし、結局、中には入らなかった。 その瞬間、ようやく理解した。彼は私に会えなかったわけではない。 単に、別の子供の父親になるのに忙しかっただけなのだ。 私はベビーシューズを入り口に置き、踵を返して人工妊娠中絶手術の予約を入れた。 第1話 「結衣、今日の弁当は少し味が薄かったけど、全部食べたよ」 翔太の声が、スマホのスピーカーから聞こえてくる。 私は帰りのタクシーの座席に座り、手にはまだあの薄っぺらい検査結果の紙を握りしめていた。 「そう」 私は静かに口を開く。 「塩が少なかったのかもしれない」 「いいんだ、薄味の方がいい。医者にも今は薄味の食事にするように言われてるしね」 彼は少し言葉を区切り、仕方がないといった口調で続けた。 「こっちの療養所は管理が厳しすぎて、テレビすらないんだ。毎日散歩して、あとはぼーっとしてるだけだよ。 でも、俺たちのこれからの子供のためだと思えば、耐えられる気がする」 私はスマホの画面上で、彼の現在地を示す青い点を見つめていた。 それは相変わらず、「ルナ産後ケアセンター」の座標に留まっている。 私の今の位置から、車でわずか10分の距離だ。 「あとどれくらいそこにいるの?」と私は尋ねた。 「あと7日だよ」 翔太は即答した。 「7日後には退院する。ちょうど結婚式のリハーサルに間に合うよ。 最近は結婚の準備ばかりさせて苦労をかけてるね。帰ったら、絶対に埋め合わせをするから」 彼の声は、ひどく誠実に聞こえた。 もしつい先ほど、彼があの赤ん坊を抱きかかえている姿をこの目で見ていなければ、感動して涙を流していたかもしれない。 「わかったわ」 私は言った。 「待ってる」 通話を終えると、運転手がルームミラー越しに私をちらりと見た。 「お客さん、どちらまで?」 「家へ」 私は住所を告げた。 玄関のドアを押し開けると、リビングには大小さまざまな段ボール箱が積み上げられていた。 掃き出し窓には結婚を祝う飾りが貼られ、ローテーブルの上には書きかけの招待状が散らばっている。 ここは、私たちが6年間共に暮らしてきた場所だ。 ソファのクッションは彼が選び、壁の絵は私が選んだものだ。 私はローテーブルの前に歩み寄り、招待状を1通手に取った。 そこにはこう印刷されている。 【瀬崎翔太・森本結衣 共に歩む、永遠の誓い】 招待状を開き、中に書かれた彼の手書きの文字を見つめた。 とても丁寧に書かれている。 結婚は一生に一度のことだから、招待状は手書きでなければ誠意が伝わらないと、彼は言っていた。 私は招待状を置き、今日買ったばかりのあのベビーシューズをバッグから取り出した。 靴はとても小さく、柔らかで、淡い黄色のヒヨコの柄があしらわれている。 本当はこの靴を彼の枕の下に忍ばせ、家に帰ってきた彼を驚かせるつもりだった。 今となっては、もうその必要はない。 私は振り返って寝室に入り、クローゼットを開けてスーツケースを1つ取り出した。 服は多くない。普段よく着ているものを数着選んだだけだ。 彼の服は反対側に整然と掛けられており、シャツは私が色別に並べた時のままだ。 荷物をまとめ終え、ベッドの端に座ってスマホを取り出した。 病院の予約アプリを開き、明日の手術時間を確認する。 午後3時、産婦人科、人工妊娠中絶手術。 画面上の文字は冷たく硬く、何の感情も帯びていない。 まるで、今の自分の心のようだ。 私は泣かなかった。ただひたすらに疲れ果てていた。 6年間の愛情と、30日間の嘘。 彼はもっともらしい理由をつけて、結婚準備の慌ただしさの中に私一人を置き去りにした。 その一方で、別の女と子供を守るために駆けつけていたのだ。 スマホが一度振動した。翔太からのLINEだ。 【結衣、早く休んでね。明日は弁当を届けに来なくていいよ、遠くまで来させるのは可哀想だから】 私は画面を見つめた。 しばらく時間が経ってから、私は短い返信を送った。 【わかったわ】 スマホを置き、寝室の明かりを消した。 目を閉じると、彼があの赤ん坊を抱いていた時の、優しい笑顔ばかりが脳裏に浮かぶ。 あんな笑顔を、彼が私に向けてくれたこともあった。 今やそれは、他の誰かのものになってしまった。 第2話 翌日のお昼、ドアの鍵が回る音がした。 私はちょうどダイニングテーブルの前に座り、牛乳を飲んでいるところだった。 翔太がドアを開けて入ってきた。手には黒いボストンバッグを提げている。 彼は昨日と同じ薄灰色のジャケットを着て、髪は少し乱れ、ひどく疲れて見えた。 「どうして帰ってきたの?」 私はグラスを置き、静かな声で言った。 「療養所に半日だけ休みをもらって、着替えを取りに帰ってきたんだ」 彼は靴を脱ぎながら、こちらへ歩いてくる。 彼が近づくにつれて、微かな香りが鼻をかすめた。 彼のいつものメンズ香水ではなく、ベビーパウダーの香りだ。 非常に薄いが、はっきりと分かる。 「どうしてこんな時間に食事を?」 彼は私のそばまで来ると、いつもの癖で頭を撫でようとした。 私はわずかに首を傾け、彼の手を避けた。 彼の手は空中で強張り、やがて引っ込められ、彼は愛想笑いを浮かべた。 「結婚の準備で疲れすぎたんじゃない?顔色があまり良くないよ」 彼は向かいに座り、ローテーブルの上に視線を落とした。 そこには結婚写真のスタジオのパンフレットが数冊と、あのベビーシューズが置かれている。 彼の視線はベビーシューズの上で一瞬止まり、瞳がわずかに揺れた。 「その靴……」 彼はローテーブルを指さし、探るような口調で言った。 「昨日買い物に行った時、可愛かったから買ったの」 私は牛乳を手に取って1口飲んだ。 「同僚の出産祝いにしようと思って」 「ああ、そうなんだ」 彼は明らかに安堵の息をつき、肩の力まで抜いていた。 「そういえば、どうして療養所に来なかったんだ?警備員が見てないって言ってたけど」 彼は何気ない風を装って尋ねてきたが、その視線は私をじっと見据えていた。 「疲れると心配だって言わなかった?」 私は彼の返事を待たず、彼の目を見つめて言った。 「ウェディングドレスの店に行って、写真撮影のプランをキャンセルしてきたわ」 翔太は言葉を失った。 「キャンセルした?どうして?蒼海市(そうかいし)のビーチで撮るって決めてたじゃないか」 「高すぎるもの」 私は伏し目がちになり、グラスの中の牛乳を見つめた。 「100万円もかける必要はないわ。これからお金がかかることはたくさんあるし」 彼はしばらく沈黙し、小さくため息をついた。 「結衣、君はいつもそうやって物分かりが良すぎる」 彼は立ち上がり、ダイニングテーブルを回って私のそばに来ると、手を伸ばして肩を押さえた。 「キャンセルしたならそれでいいさ。節約したいんだろ。窮屈な思いをさせてごめんな。 退院したら、エメラルド島に連れて行って撮り直そう、な?」 彼の声は優しかった。 私は何も言わず、ただ静かにテーブルの上を見つめていた。 スマホの画面が光り、送金通知が表示された。 【瀬崎翔太から2,000,000円が送金されました】 彼は私の肩を叩いた。 「これ、自分で何か美味しいものでも買いなよ。あまりケチケチするな。結婚の準備は苦労をかけるけど、俺が帰るまで頼んだよ」 彼は腕時計を見ると、急に焦った口調になった。 「もう行かなきゃ。療養所の見回りが厳しくて、長居すると医者に怒られるんだ」 彼は足早に寝室に入り、適当に数着の服をボストンバッグに詰め込むと、また慌ただしく出てきた。 「行くよ。体に気をつけて」 ドアが閉まった。 部屋に再び静寂が戻った。 私はスマホを取り出し、あの送金通知を開いた。 200万円。 彼はこの200万円で自分のやましさを清算し、私を安心させて、このまま家で結婚準備を続けさせられると思っているのだ。 私は受け取りボタンを押した。 そして病院の支払いページを開き、手術費と術後の栄養補助の費用をそこから振り込んだ。 残りの金はすべて、普段使っていない銀行口座に移した。 これは彼が支払うべき代償だ。 私は立ち上がり、ローテーブルの前に行ってあのベビーシューズを手に取った。 靴底はとても柔らかく、手に握ると羽のように軽かった。 ゴミ箱のそばまで行き、手を離す。 ベビーシューズは、音もなくゴミ箱の底へと落ちていった。 寝室に戻り、ゆったりとした黒いトレンチコートに着替えた。 身分証明書を持ち、ドアを開けて外へ出る。 外はとても天気が良く、日差しが目を刺して痛いほどだった。 私はタクシーを拾った。 「運転手さん、中央病院まで」 第3話 中央病院の産婦人科は、常に人でごった返している。 廊下には消毒液の匂いと、子供の泣き声が充満していた。 私は受付票を手に、冷たいプラスチックの椅子に座って待った。 隣には若い夫婦がいて、夫が注意深く妻のためにみかんの皮を剥いている。 「ゆっくり食べなよ、酸っぱくないか?」 妻は首を横に振り、とても幸せそうに笑った。 私は顔を背け、壁の電子掲示板を見つめた。 スマホが一度振動した。翔太からのLINEだ。 風景の写真が送られてきた。青々とした芝生と、数本の柳の木が写っている。 【今日の療養所は本当に空気が澄んでるよ。医者も順調に回復してるって言ってた。結衣、会いたいよ】 私はその写真を拡大し、注意深く観察した。 芝生の端に、ゴミ箱が半分だけ写り込んでおり、そこには「ルナ」の文字がはっきりと印刷されていた。 彼の嘘はあまりにもお粗末で、背景をトリミングする手間すら惜しんだらしい。 私は2人の共有口座を開いた。 過去3ヶ月間、毎月10万円が須藤晴香(すどう はるか)という名義へ振り込まれている。 それ以外にも、産後ケアセンターの費用が何度か、共有口座から引き落とされていた。 私はその送金履歴をしばらく見つめた後、すべてスクリーンショットを撮ってスマホに保存した。 私は短い一言を返信した。 【体に気をつけて】 そして電源ボタンを押した。 画面は完全に暗くなり、青白い顔を映し出した。 「森本結衣さん、3番診察室へお入りください」 スピーカーから機械的な女性の声が流れる。 私は立ち上がり、服を整えてからドアを押して入った。 医者は50代ほどの女性で、金縁の眼鏡をかけていた。 彼女はカルテに目を落とし、それから顔を上げて私を見た。 「森本結衣さんですね?人工妊娠中絶手術を希望されるということで、間違いないですか?」 「間違いありません」 私は落ち着いて答えた。 「ご家族は?術後は誰か付き添いがいた方がいいのですが、お迎えに来られるご家族やご友人はいますか?」 彼女は眉をひそめた。 「いません」 私は言った。 「一人で大丈夫です」 医者はため息をつき、同意書を目の前に差し出した。 「手術にはリスクが伴います。よく考えてくださいね。あなたはまだ若いのだから、将来また子供を持つチャンスはありますよ。 でもこれだけは言っておきますが、術後は安静にして、体を冷やさないように気をつけてください」 私はペンを取り、署名欄に自分の名前を書き込んだ。 ためらいもなく、ペン先を止めることもなかった。 署名を終えると、看護師が術前検査へと案内してくれた。 採血、心電図、超音波検査。 器具がお腹の上を滑り、画面に小さな黒い点が現れる。 「見えますか?これが胎嚢ですよ」 検査技師が画面を指差して言った。 私は目を閉じ、顔を背けた。 「見せなくて結構です」と答えた。 技師は一瞬言葉を失ったが、何も言わずに黙々と検査結果を印刷した。 30分後、手術着に着替え、手術室に入った。 手術台はひどく冷たく、頭上の無影灯が眩しくて目を開けていられなかった。 麻酔科医が近づき、静脈に針を刺す。 「少し痛みますよ、我慢してくださいね。深呼吸して」 円形に並んだライトを見つめているうち、意識が徐々に遠のき始めた。 朦朧とする意識の中で、また翔太の声が聞こえたような気がした。 「結衣、将来は女の子を作ろう。君に似た子をね。俺は2人をお姫様みたいに甘やかすんだ」 あの時、私たちは映画を見ていて、彼は栗の皮を剥いて口に運んでくれた。 彼の瞳はキラキラと輝き、期待に満ち溢れていた。 それが2人の未来なのだと、私は思っていた。 だが今、私は自分の手で、その未来をこの冷たい手術台に置き去りにしようとしていた。 「眠りましょう。起きた時には終わっていますからね」 看護師の声が耳元で響く。 私は目を閉じた。目尻は乾ききっており、涙も出なかった。 心のどこかが、完全に空っぽになってしまった。 第4話 目を覚ました時、すでに回復室のベッドの上にいた。 下腹部に、何かが内側から引き裂かれるような鈍い痛みが何度も走った。 天井を見つめてしばらく呆然とした後、ベッドの縁に手をついて体を起こした。 看護師がやってきて、温かいお湯が入ったコップを渡してくれた。 「目が覚めましたか?帰ったらゆっくり休んでください。これから2週間は無理をせず、体を冷やさないようにして、重いものも持たないでくださいね」 私はコップを受け取った。 「ありがとうございます」 自分の服に着替え、病院を出る。 日差しは相変わらず眩しく、私はトレンチコートを強く引き寄せ、タクシーに乗って家に帰った。 ドアを開けると、部屋の中は恐ろしいほど静まり返っていた。 明かりをつけず、まっすぐソファに歩いていって座り、スマホを取り出して電源を入れた。 画面が明るくなると同時に、10数件のLINEの通知が飛び込んできた。 すべて翔太からのものだった。 【結衣、こっちのご飯は味気なくて、君の作った豚の角煮がすごく食べたいよ】 【今日はどうして無視するの?結婚の準備で疲れすぎちゃったのかな?】 【帰ったら俺がご飯を作るから、君は何もしない奥様でいさせてあげるよ】 1枚の写真も添えられていた。色鮮やかで手の込んだ栄養食だ。 彼はわざとアングルを工夫していたが、その食器の模様を見れば一目でわかった。 ルナ産後ケアセンターの専用食器だ。 私はそれらのメッセージを見つめたが、心には何の波立ちさえ起こらなかった。 あるのはただ、深い嫌悪感だけ。 私は母に電話をかけた。 「お母さん、私、海央市(かいおうし)で働くことにしたの。荷物をまとめて、数日後にはこっちへ来て」 母は電話の向こうで数秒沈黙した。 「何かあったの?」 「何もないわ」 私はガランとしたリビングを見つめながら言った。 「ただ、違う場所で暮らしたくなっただけ」 「わかった。あなたの好きにして」 通話を終え、引っ越し業者に電話をかける。 「もしもし、箱型のトラックを1台手配してください。今すぐにお願いします」 1時間後、2人の作業員がドアをノックした。 「お客さん、これ全部運ぶんですか?」 作業員は部屋いっぱいの段ボール箱とお祝いの飾りを見て、少し驚いた様子だった。 「お祝いの飾りが貼ってありますけど、新居に引っ越してご結婚されるんですか?」 「結婚はしません」 私は淡々とした口調で言った。 「私の荷物だけ運んでください」 私は寝室にある黒いスーツケースと、書斎にある数箱の本を指差した。 「これだけですか?」 作業員はきょとんとした。 「これだけです」 実際のところ、6年もこの部屋で暮らしたのだから、当然、私の生きた痕跡は至る所に染み付いている。 しかし、彼に関連するものは何一つ持っていきたくなかった。 彼が買った服、彼が贈ってくれたアクセサリー、彼が選んだマグカップ。すべてを元の場所に残した。 作業員たちは手際よく、あっという間に荷物を下へと運び出した。 私は空っぽになったリビングに立ち、周囲を見渡した。 ローテーブルの上には、写真撮影のキャンセル控えが静かに置かれている。 バッグから鍵を取り出し、控えの上に置いた。 少し考えた後、再びゴミ箱のそばへ行き、ホコリにまみれたあのベビーシューズを拾い上げた。 それをローテーブルの真ん中、鍵の隣に置いた。 すべてを終え、スマホを取り出し、翔太のアイコンをタップした。 彼が送ってきた【会いたいよ】を最後に一瞥する。 そして、右上をタップし、ブロックリストに追加した。 LINEも電話も、私に連絡できるすべての手段を完全に断ち切った。 トレンチコートのファスナーを上げ、振り返ってドアから出た。 カチャリと、ドアの鍵が落ちる音がした。 6年間の青春と、馬鹿げた嘘を、ドアの向こう側に完全に閉じ込めたのだ。 引っ越し業者のトラックに乗り込むと、作業員がペットボトルの水を渡してくれた。 「お客さん、どちらまで?」 「新幹線の駅へ」 私は答えた。 車が走り出す前、母にメッセージを送った。 【先に海央市に行ってるから、数日後、お母さんも来て】 母からすぐに短い返信が来た。 【わかったわ】 車が動き出し、ゆっくりとマンションの敷地を出る。 見慣れた街並みが窓の外で少しずつ後退していくのを見つめながら、私は一度も振り返らなかった。 体の奥の痛みはまだ続いているが、明日目が覚めれば、すべてが良くなることを知っていた。 なぜなら、私にはもう、彼など必要ないのだから。

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