息子を失った日、夫はあの人のそばにいた

プロモーションを読み込み中...

息子を失った日、夫はあの人のそばにいた

GoodNovel 完結

拉致された息子の早川悠真(はやかわ ゆうま)が殺された日、私は夫の早川遼介(はやかわ りょうすけ)に何十回も電話をかけた。けれど、一度も出なかった。 翌朝になってようやく折り返してきた遼介は、いら立った声で言った。 「昨夜は香奈の胎動が激しくて、僕は病院に付き添ってたんだ。何度も電話してきて、何の用だったんだ?」 私は震える手でスマホを握りしめ、問いかけた。 「瀬戸香奈(せと かな)のお腹の子と悠真、あなたにはどっちが大事なの?」 一瞬の沈黙のあと、遼介は低い声で「どうかしてる」と吐き捨て、そのまま電話を切った。 もう、夫に期待する気持ちはひとかけらもなかった。 遼介、あなたは必ず後悔する。

チャプター (1)

第1章

拉致された息子の早川悠真(はやかわ ゆうま)が殺された日、私は夫の早川遼介(はやかわ りょうすけ)に何十回も電話をかけた。けれど、一度も出なかった。 翌朝になってようやく折り返してきた遼介は、いら立った声で言った。 「昨夜は香奈の胎動が激しくて、僕は病院に付き添ってたんだ。何度も電話してきて、何の用だったんだ?」 私は震える手でスマホを握りしめ、問いかけた。 「瀬戸香奈(せと かな)のお腹の子と悠真、あなたにはどっちが大事なの?」 一瞬の沈黙のあと、遼介は低い声で「どうかしてる」と吐き捨て、そのまま電話を切った。 もう、夫に期待する気持ちはひとかけらもなかった。 遼介、あなたは必ず後悔する。 第1話 「早川美緒(はやかわ みお)さん、どうかご安心ください。犯人を見つけるため、全力を尽くします」 車まで送ってくれた警察官たちは、みな真剣な顔をしている。 私はなんとか笑みを作り、うなずいた。 運転手は何度もこちらを振り返り、しばらくしてから小さくため息をついた。ティッシュを差し出すと、穏やかな声で尋ねる。 「お嬢さん、何かあったんですか?」 こぼれそうになる涙をこらえ、どうにか体の震えを抑える。私は小さな声で答えた。 「子どもに、ちょっと……」 「えっ、ご主人は?どうして1人で警察に来たんですか?こういうときは男の人がそばにいてくれたら、少しは心強いでしょうに」 運転手の言葉に、こらえていた涙がまたあふれた。胸を締めつけられるように苦しく、息が詰まる。 そうだ。夫は、どこにいる? 息子が死んだとき、夫は香奈の妊婦健診に付き添っていた。お腹の子は自分の子でもないのに、悠真よりも大切にしていた。 死ぬ間際、電話の向こうで泣き叫んでいた悠真の声が、今も耳から離れない。 「ママ、助けて!ママ!」 すぐに、犯人の冷たい声が続く。 「仕方ないね、坊や。君の家族には、ちゃんとチャンスをあげたんだから」 そのあと…… 頭がひどく痛み始めた。めまいが波のように押し寄せる。 ほどなく家に着いた。どうにか車を降り、ふらつく足で玄関まで歩いて、暗証番号を押す。 1回、2回、3回…… 【暗証番号が違います】 視界がかすんでいく。どの数字を間違えたというのだろう。 0326。息子の誕生日だ。 4回目の入力をしようとしたとき、ドアが内側から開いた。よろめいて倒れそうになりながら顔を上げると、そこには得意げな香奈がいた。 血の気のない私の顔を見下ろし、鼻で笑う。 「かわいそうなふりをして、どうするの?遼介は昨夜、ひと晩ずっと病院で私に付き添ってくれたの。今は寝てるから、そんな顔をしたって誰も見てないわよ。 ああ、そうだ。玄関の暗証番号、私がなかなか覚えられないから、遼介が変えてくれたの。0811。お腹の子の出産予定日よ」 言い終えると、香奈はさっさと家の中へ戻っていった。私を見下すためだけに、ドアを開けに来たようだった。 唇をきつく噛みしめる。悲しみより先に、怒りがこみ上げてきた。大股で追いつくと、香奈の髪をつかんで玄関へ引っ張った。 「ここは私の家よ!どうしてあなたが我が物顔で居座ってるの!」 「美緒!どうかしてるんじゃないか!」 背後から、冷たく怒りを帯びた男の声がした。次の瞬間、頭に痛みが走り、思わず手を放した。 床に尻もちをつき、頭の痛みが少し和らぐまで動けなかった。顔を上げると、遼介は心配そうに香奈の腕を取ってソファに座らせていた。 「大丈夫か?お腹は?」 香奈が首を横に振ってから、ようやく遼介は私を見た。あきれたような顔をしている。 「美緒、正気か?香奈が妊娠してるって、わかってるだろう!?」 怒りが振り切れて、笑いが漏れた。私は冷ややかな目で2人を見やる。 「香奈と、父親もわからないその子のために、自分の子は放ったらかし。そのうえ私にまで手を上げるの?本当は、あなたの子なんでしょう?」 途端に、香奈の目が赤くなった。 「美緒さん、どうしてそんなことを言うの?私は遼介をお兄さんみたいに思ってるだけなのに。結婚もしていないのに妊娠して、私だってこんなはずじゃなかった。あんなひどい男にだまされたくなんてなかったの」 そう言いながら、大粒の涙をぽろぽろとこぼす。遼介は慌ててなだめた。 「あんなおかしな女の言うこと、聞かなくていいよ、香奈。妊娠中なんだから、気持ちを落ち着けないと」 2人の姿を見て、私がお腹に悠真を宿していた頃を思い出した。まだ香奈が帰国する前で、私たち夫婦も、こんなふうにはなっていなかった。 あの頃の遼介も、同じだった。毎日きっちり同じ時間に会社から帰り、真っ先に私のお腹に耳を当てる。 「いい子にしてたかな?今日はママのお腹を蹴った?」 私は笑って遼介の髪をくしゃくしゃにした。 「まだ3か月よ。蹴るのはもっと先だってば」 すると遼介は、いとおしそうに私を抱きしめ、楽しみで仕方ないという顔で言った。 「男の子だったら、ママを守れるように育てたいな。女の子なら、僕が2人まとめて守るよ」 あんなに甘かった言葉が、今は刃のように胸に突き刺さる。 壁に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。体がぐらぐらと揺れる。ここまで弱っていることに、遼介は初めて気づいたらしい。とっさに支えようとした手を、私は強く押しのけた。 目の前の男を見つめる。結婚して7年もたつのに、まるで知らない人のようだった。 とうとう、力が尽きた。私は遼介を見上げ、ひと言ずつ、静かに告げた。 「遼介、離婚しよう」 第2話 「美緒、そこまで言うことか?電話に出なかっただけだろう。毎日、君からの電話を待っていなきゃいけないのか?僕にだって用事はあるんだ」 思わず声を出して笑ってしまった。悲しみも苦しみも、今はただ冷たい嘲りに変わっていた。 「あなたの用事って、香奈の妊婦健診に付き添うこと?」 「知ってるだろう!子どもの頃から、香奈は妹みたいなものなんだ。妊娠して実家にも帰れないんだから、兄代わりの僕ができることくらい、してやりたいんだよ」 だったら、出産まで代わってあげたら?心の中でそう吐き捨てた。 もう、ひと言も話したくなかった。 荷物をまとめようと寝室へ向かう。けれど、モノトーンで統一していたはずの部屋は、ピンク色の物で埋め尽くされていた。 「美緒さん、遼介が、妊娠中なんだから居心地のいい部屋を使ったほうがいいって。先日、美緒さんが出張に出ている間、何日かここで寝ていいって言ってくれたの。嫌なら今すぐ出ていくわ。ホテルでも大丈夫だから」 香奈は今にも泣き出しそうな顔で、その場にしゃがみ、荷物をまとめ始めた。 遼介も、さすがにやりすぎたとは思ったらしい。それでも香奈を引き止め、私に言った。 「僕たちがゲストルームで寝たらどうかな?ほんの数か月だし、そんなに――」 「悠真のお守りのペンダントは?」 私は言葉を遮り、何もないベッド脇の棚を指さして問い詰めた。 遼介の顔に、一瞬、後ろめたそうな色が浮かぶ。けれどすぐ、悪びれもせずに答えた。 「ああ、この間、悠真が遊んでいてなくしたんだ。そのうちまた買ってやればいいだろう。 それより、悠真は?また君のお母さんのところに連れていったのか?そこまですることかよ」 胸の奥が、すっと冷えた。私が帰ってきてから、もう30分もたっている。今になってようやく、悠真がいないことに気づいたのだ。 なんて立派な、責任感のある父親だろう。 2人を押しのけ、まっすぐ部屋の外へ向かった。 香奈のそばを通り過ぎたとき、覚えのある香りがした。悠真がいちばん好きだった香りだ。 あの子が丸3日間、熱を出し続けたとき。私はお寺の3000段もの石段を上り、お守りのペンダントを手に入れた。それと同じ香りだった。 目の奥がかっと熱くなり、全身が震え出した。振り返って香奈の服をつかみ、手で探り始める。香奈が驚いて悲鳴を上げた。 「正気か!」 止めようと近づいた遼介が、動きを止めた。香奈がポケットに隠していたペンダントが見えたのだ。真っ二つに割れていた。 「香奈、どういうことだ?」 戸惑ったその顔は、演技には見えなかった。 息が詰まる。震える指で、割れたペンダントを取り出した。目を閉じて病院のベッドに横たわる、息子の姿が頭をよぎる。 怒りで何も考えられなくなり、私は香奈の首をつかんで叫んだ。 「死んでしまえばいいのに!」 パシン、と乾いた音がした。叫んだ私の頬を、遼介が容赦なく張ったのだ。避ける間もなく頬を打たれ、私はそのまま床に倒れ込んだ。 遼介は呆然とした顔で駆け寄り、私を起こそうとした。その手を、私は振り払った。 すかさず香奈が、お腹を押さえて声を上げる。 「遼介、お腹が痛い……流産しちゃうんじゃないかな」 案の定、遼介の意識はすぐ香奈に向いた。彼女を抱き上げると、床に倒れた私には目もくれず、そのまま玄関へ向かった。 「美緒!家でじっとしてろ!帰ったら話すからな」 声は遠ざかり、部屋の中も少しずつ暗くなった。割れたペンダントを両手で包み、声もなく泣く。胸が引き裂かれるようで、息ができなかった。 ごめんね、悠真。ママが悪かった。 幸せな家庭も、いいパパも、あなたには与えてあげられなかった。 ママと一緒にここを出よう。ね? 第3話 あの家に残っていた悠真の物を、何もかも実家へ持ち帰った。 ここ数年、遼介は仕事が忙しく、あまり家に帰らなかった。私も仕事と育児を両立できず、悠真の世話は、ほとんど母がしてくれていた。 少し前、祖母の持病が悪化し、母は看病のため実家に戻っていた。今、この家には私しかいない。 悠真の服を全部出しては、何も考えられないまま元へ戻す。何度か繰り返したところで、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。 震える手でスマホを握り、午前中に対応してくれた警察官へ電話をかけると、すぐに相手が出た。 「もしもし、早川さん?」 私は泣きながら声を上げた。 「息子を殺した犯人は、見つかったんですか?」 警察官は申し訳なさそうに答えた。 「容疑者の目星はつきました。今、追っているところです。情報が漏れるおそれがありますので、逮捕でき次第、こちらからご連絡します」 電話を切ってベッドに横になり、悠真と一緒に写った写真を1枚ずつ眺めた。 赤ん坊だったあの子が、少しずつ大きくなり、幼稚園へ通い、小学生になる。しわくちゃだった顔が、あどけない男の子の顔へ変わっていく。それを見ているうちに、視界が真っ暗になった。 私は、意識を失った。 …… 夢うつつに、悠真が見えた。学校の門の前で、待ちかねたように私を探している。 そばへ行き、いとおしい頭をくしゃりとなでた。手をつないで、笑いかける。 「さあ、ママとおうちに帰ろう」 聞き分けのいい悠真は、笑ってうなずいた。それでも、その顔に寂しさが浮かんだのを、私は見逃さなかった。 しばらく歩いてから、ふいに悠真が私を見上げた。つぶらな瞳をぱちぱちとさせる。 「ママ、パパは忙しいの?」 私は一瞬言葉に詰まり、それからうなずいて微笑んだ。 「悠真、パパに会いたい?」 「うん。僕、毎日数えてるんだ。もうすぐ1か月になるよ。ずっとパパに会えてないの」 本当は、あの頃すでに、胸騒ぎはしていた。香奈が帰国していたからだ。 香奈が戻ってから、遼介の仕事は前よりも忙しくなった。そのくせ、香奈のSNSの投稿には、しょっちゅう男の手が写っていた。遼介の手だった。 それでも深く考えようとはしなかった。遼介を信じよう。間違ったことなんてしない。私と悠真を愛してくれている。そう、自分に言い聞かせた。 長年一緒にいて、ほかの女性によそ見をしたことも、一線を越えたこともなかったのだ。本当にいい夫で、いい父親だった。 少なくとも、私が香奈に会うまでは。 ある朝、香奈が我が家のドアをたたいた。目を赤くし、お腹をかばい、スーツケースを1つ持って、そのまま住み始めた。 あのときの私は、香奈を妹のように思っていた。こんな結末が待っているなんて、考えもしなかった。 …… 悠真の泣き叫ぶ声がした。助けを求める声に、はっと目が覚めた。起き上がると、枕が涙で濡れていることに気づいた。 ぼんやりした頭のままスマホを見る。朝の5時だった。ふいにスマホが震え始めた。遼介からだ。 出るなり、怒りにまかせた声が耳に飛び込んできた。 「何度も電話してるだろう!聞こえないのか!?今すぐ病院に来て、香奈に謝れよ!君のせいで、怖い思いをして、流産するところだったんだぞ!」 何を言われるかはわかっていた。香奈をかばう言葉など、もう何度も聞いている。それでも、胸は痛んだ。 片手でスマホを強く握りしめ、いつもどおりの声を出そうとした。 「遼介、離婚しよう。もう、本当に疲れたの」 遼介は少し黙り、それから冷たく鼻を鳴らした。 「離婚を持ち出せば、僕が折れると思うなよ。したいならすればいい。ただし、悠真は僕が引き取る」 第4話 私はそのまま電話を切った。怒りで全身が震えていた。こんなときまで、遼介は悠真を使って私を脅す。そのうえ、香奈に謝りに行けとまで言う。 何年も注いできた愛情が、全部無駄になった。あまりにも、ばかばかしかった。 ベッドを出て悠真の物を片づけると、ペンダントを持って修理を頼める店を探した。 まだ朝で、通りを行き交う人は少なかった。店先に静かに腰を下ろし、年配の職人が作業する音を聞いていた。 「お嬢さん、これ、何かでわざとたたき壊したんじゃないかね?」 体がこわばった。振り向いて、職人を見る。 「え?」 職人は私に目をやると、丁寧に説明してくれた。 「たたき壊さないと、こんな傷はつかないんだ。直すのは難しいが、できるだけやってみるよ」 私はぼんやりとうなずいた。胸の痛みが、また広がっていく。 スマホを取り出し、遼介にメッセージを送った。 【場所を送って】 すぐに位置情報が返ってきた。続けて、メッセージが届く。 【おにぎりも持ってきて。香奈が大好きな、君の手作りのおにぎりを】 いったい、何を夢見ているのだろう。私は画面を切り替えて配達アプリを開き、迷わず10万円分の菊を注文した。届け先は香奈の病室にした。 職人から直ったペンダントを受け取ると、案の定、スマホが鳴った。電話の向こうは大騒ぎで、香奈の泣き叫ぶ声に、遼介の怒鳴り声が重なっていた。 「美緒!本当にどうかしてるぞ!誰に死ねって当てつけてるんだ! こんなことをして、どんな人間だと思われるかわからないのか?自分はよくても、悠真のことを考えろよ!みんなに撮られてるんだぞ!あれが広まったら、悠真はどんな顔で生きていくんだ!僕の面目はどうなる!」 またすぐに電話を切った。胸の内で、冷たく笑う。 遼介、気にしているのは、自分の体面でしょう? 悠真のペンダントを壊した香奈への、ただの警告だ。それ以上、何かをするつもりはない。この怒りを少しでも晴らしたかっただけ。 あとは、法に委ねる。 店を出ると、病院から電話がかかってきた。悠真の解剖が終わったので、遺体を引き取って火葬できるという。 急いでタクシーを拾い、病院へ向かった。道中も遼介からはひっきりなしに電話がかかってきた。最後には、その番号を着信拒否にした。 病院に着くと、悠真の冷たくなった体が運ばれてきた。顔にも体にも、血の気がなかった。 めまいがして、壁にすがらなければ立っていられなかった。それなのに、涙は1滴も出なかった。胸の中には、抱えきれない悲しみだけがあった。 顔から血の気が引いていくのを感じながら、医師についていき、残りの手続きを進めた。 午後、火葬の前に、私は悠真のこわばった手に、お守りのペンダントを握らせた。 少しだけ笑いかけ、あの子の姿が目の前から消えていくのを見送る。ぱちぱちとはぜる音が聞こえ、とうとう涙がこぼれた。 どれくらいたったのだろう。戻ってきた斎場の職員が、小さな骨壺を差し出した。 あんなに大きくなっていたあの子が、死んでしまうと、こんなに小さくなるの。 この世でいちばん大切な宝物を受け取るように、両手でそっと抱えた。 職員がお辞儀をし、お悔やみの言葉をかけてくれた。私はうなずき、一歩ずつ、しっかりと足を踏み出した。振り返らずに斎場を出た。 車に乗る前に、遼介へ電話をかけた。悠真が死んだと伝えたかった。私たちの、たった1人の息子が。 電話にも出ず、身代金も払ってくれなかったせいで、死んだのだと。 長い呼び出し音のあと、ようやくつながった。珍しく、2人ともしばらく何も言わなかった。 やがて、私から口を開いた。「悠真が……」 「悠真の話はやめてくれ。知ってるか?午後に君が花なんか送るから、香奈は流産したんだぞ!それなのに、まだ悠真の話か?しばらく家に帰らせるなよ。君のお母さんの家にいさせてくれ。香奈を刺激したくないんだ」 スマホを持つのと反対の手を、強く握りしめた。爪が手のひらに食い込む。痛くて、涙が止まらなかった。 遼介はようやく、私の様子がおかしいと気づいたらしい。黙ったままの私に、尋ね直した。 「それで?悠真がどうした?」 喉にせり上がる血の味を、無理やりのみ下した。怒りよりも、悲しみのほうが大きかった。 口を開き、ありったけの力を振り絞って、いつもどおりの声を出した。 「何でもない。香奈についていてあげて。離婚協議書は病院に送るから。3日以内に返事がなければ、弁護士に連絡して、離婚の手続きを進めてもらう」 第5話 今度は、遼介のほうから切った。電話が切れる直前、小さな声で「どうかしてる」と私を罵るのが聞こえた。 そう。遼介の目には、この1年の私は、頭のおかしな女としか映っていなかった。 香奈が家に住み始めると、遼介の仕事は急に暇になったらしい。妊婦健診に付き添い、食べたがる物を買ってやり、それどころか自分で料理まで作るようになった。 夜、学校から帰った悠真が、その日の楽しかった出来事を話したがっても、遼介はいつも適当にあしらった。あの子は次第に、口数が減っていった。 そんなことで、私は何度も遼介と口論になった。 悠真の保護者会の日も、遼介は香奈が食べたいというイチゴのケーキを買いに付き添っていた。先生から電話をもらって初めて、私は遼介が来ていないことを知った。 電話をかけると、遼介は悪びれもせずに言った。 「忘れてた。香奈とケーキを買いに来てたんだ。保護者会なら、君が行けばいいだろう?」 怒りのあまり、笑いが漏れた。 「1週間前、悠真に約束したでしょう!ずっと一緒に過ごせていないから、今度の保護者会は自分が行くって! この1週間、あの子がアニメを我慢してたの、知ってる?小テストでいい点を取れば褒めてもらえて、パパがもっと一緒にいてくれる。そう思って頑張ってたのよ。それでも父親なの!?」 遼介は長いこと黙っていた。やがて「わかった」とひと言だけ返すと、電話を切った。 私は、本当に反省してくれたのだと思っていた。 ところがその晩、帰ってきた遼介の手には、イチゴのケーキが2つあった。悠真を見つけるなり、うれしそうに抱き上げて褒め始めた。 「悠真、テストよくできたんだってね!パパからのご褒美に、イチゴのケーキを買ってきたよ」 さっきまで笑っていた悠真の顔が、ぴたりとこわばった。子どもの気持ちは、そのまま顔に出る。 遼介も様子がおかしいことに気づいたらしい。箱を開けて、悠真の前にケーキを置いた。 「うれしい?」 悠真はうつむいたまま、何も言わなかった。赤くなった目も、テーブルの下で固く握りしめた小さな拳も、私には見えていた。 もう耐えられず、私は1歩前に出てケーキを床に投げ捨てた。驚いて私を見る遼介に、失望を隠さず言う。 「悠真はイチゴアレルギーでしょう。それも忘れたの?3歳のとき、うっかり食べて丸3日も入院したじゃない。あなたも3日間ずっと付き添ってたのに、全部忘れたの?」 遼介はうろたえ、悠真の手を取って謝り始めた。 「ごめんな、悠真。パパは――」 「ごめんね、悠真くん。私のお腹の赤ちゃん、イチゴが大好きなの。子どもはみんな好きなんだと思って、パパにお願いしたのよ。悠真くんへのご褒美に、ケーキを持って帰ってって。私のこと、怒らないでくれる?」 割って入ったのは香奈だった。遼介より先にしゃがみ込み、悠真の手を取って謝り始めていた。 悠真は下唇を強くかみ、助けを求める目を私に向けた。私は悠真を連れて、家を出た。 あの日は遼介と大げんかになり、実家の玄関まで追ってきた彼に、私は告げた。 「香奈は、血のつながった妹じゃない。お腹の子だって、あなたとは何の関係もないでしょう。それでも家に置きたいなら、私と悠真が出ていく」 遼介は苦しげに顔をゆがめた。「どうしてそんなに香奈を受け入れられないんだ?」 私は取り合わず、家に入れなかった。 けれど夜中、悠真は小さく体を丸め、夢の中でまで泣いていた。パパが恋しくてたまらないのだ。その姿がつらくて、結局、私は遼介の謝罪を受け入れた。 今ならわかる。帰るべきではなかった。あのまま戻らなければ、悠真は死なずに済んだのかもしれない。 …… 実家に着いたのは、もう夜だった。玄関に入ると、家中の明かりがついていた。母が帰ってきたのかと思ったら、目の前に現れたのは香奈だった。 悲しげな顔で、私を見つめている。 「美緒さん、お腹の赤ちゃん、いなくなっちゃった。それで、どうしても子どもに会いたくて……悠真くんに会いたいの。どこにいる?」 私は骨壺を胸に強く抱きしめた。食い込む痛みにも構わず、離さなかった。 「出ていって。ここは私の家よ」 そこでようやく、遼介が玄関から入ってきた。焦った顔で私を見る。 「悠真は?どこかに隠してるのか?ずっとパパに会えてないんだから、寂しがってるに決まってる。美緒、もう意地を張らないで、悠真と帰ってきてくれ」 その顔を見ているだけで、吐き気がした。私はうなずき、胸に抱えた骨壺を見せた。悲しみしかない笑みを浮かべる。 「悠真なら、ここよ。死ぬ前はきっと、あなたに会いたかったんでしょうね。そうじゃなきゃ、犯人が10数回もあなたに電話しないもの。 でも遼介、あなたは少しも会いたくなかったのね。でなければ、10数回の電話に、どうして一度も出なかったの?」

More GoodNovel Novels