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身代わりは御免、前夫は追憶の果てに沈め
宮城裕康(みやぎ ひろやす)と結婚したとき、皆川和佳奈(みながわ わかな)は22歳、彼は32歳だった。 それから2年間、裕康から注がれる優しさは尽きることがなかった。 望むものは何一つ惜しまず与えられ、まるで壊れやすい宝物のように溺愛される日々。 ただ一つ、毎晩繰り返される際限のない情事を除いては。 和佳奈がいくら涙をこぼして許しを乞うても、彼は低く甘く笑うだけで、決して解放してはくれなかった。 裕康には有り余る富と、溢れんばかりの愛があった。そのすべてが自分だけのものだと、和佳奈は信じて疑わなかった。 ――実の父親が息を引き取った、あの日までは。 和佳奈は裕康に何回も電話をかけ続けたが、すべて一方的に切られた。 その直後、親友の寺山綾香(てらやま あやか)からメッセージと共に1枚の写真が届いた。 【和佳奈、これ旦那さんじゃない?パレーシアの街角で見かけたんだけど、女の人と抱き合ってる】 震える指で画面を開いた瞬間、和佳奈は全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。 そこに写る男は、紛れもなく裕康だった。 そして、その腕に抱かれていたのは――母親の妹である叔母、浅見清良(あさみ きよら)だった。
チャプター (1)
第1章
宮城裕康(みやぎ ひろやす)と結婚したとき、皆川和佳奈(みながわ わかな)は22歳、彼は32歳だった。
それから2年間、裕康から注がれる優しさは尽きることがなかった。
望むものは何一つ惜しまず与えられ、まるで壊れやすい宝物のように溺愛される日々。
ただ一つ、毎晩繰り返される際限のない情事を除いては。
和佳奈がいくら涙をこぼして許しを乞うても、彼は低く甘く笑うだけで、決して解放してはくれなかった。
裕康には有り余る富と、溢れんばかりの愛があった。そのすべてが自分だけのものだと、和佳奈は信じて疑わなかった。
――実の父親が息を引き取った、あの日までは。
和佳奈は裕康に何回も電話をかけ続けたが、すべて一方的に切られた。
その直後、親友の寺山綾香(てらやま あやか)からメッセージと共に1枚の写真が届いた。
【和佳奈、これ旦那さんじゃない?パレーシアの街角で見かけたんだけど、女の人と抱き合ってる】
震える指で画面を開いた瞬間、和佳奈は全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。
そこに写る男は、紛れもなく裕康だった。
そして、その腕に抱かれていたのは――母親の妹である叔母、浅見清良(あさみ きよら)だった。
第1話
父・皆川信太郎(みながわ しんたろう)が息を引き取ってから3日目、裕康はようやく帰宅した。
玄関のドアを開けた瞬間、ソファで小さく縮こまり、目を腫らしてやつれ果てた和佳奈の姿が目に飛び込んできた。
激しい罪悪感に駆られた裕康は大股で駆け寄り、和佳奈の華奢な体を抱きしめた。
「和佳奈……すまない。急な会議でパレーシアへ飛ばなきゃならなくて、時差のせいで電話に気づけなかった。葬儀にも立ち会えず、本当に申し訳ない。
俺が悪かった。埋め合わせは必ずする。欲しいものは何でも買ってやるから、な?」
和佳奈は夫の言い訳を静かに聞いていた。
だが、その瞳には何の感情も浮かんでいない。
何も言わずにバッグから厚みのある2部の契約書類を取り出すと、肝心の表題を付箋で巧みに隠し、最後の署名欄だけを広げて裕康へ差し出した。
「ヒロさん。私、この2つが欲しい。サインして」
裕康は安堵のため息を漏らし、慌ててペンを走らせて署名した。
一切の躊躇もないその手つきに、和佳奈の目頭が熱くなった。
「中身も見ないでサインするなんて……とんでもなく高価なものをおねだりしてたらどうするの?」
裕康は困ったように微笑み、和佳奈を優しく抱き寄せた。
「俺たちは夫婦だろう?俺の財産はお前のものだし、子どもが生まれたらお前とこの子のものだ。欲しいものは何だって手に入れていい」
そう言って身をかがめると、和佳奈のお腹に耳を寄せて赤ちゃんの気配を確かめた。
「今日は妊婦健診の日じゃなかったか?赤ちゃんはいい子にしてる?俺も一緒に病院へ行こう」
和佳奈は口を開かなかった。
肯定も否定もしなかった。
裕康はそれを同意と受け止め、体を労わるように支えて車へ乗せた。
車内には息の詰まるような沈黙が漂い、互いに言葉を発しなかった。
裕康が場を和ませようと話題を探し始めたその時、スマートフォンが無機質に鳴り響いた。
「裕康、帰国したの。会いたいな」
助手席との距離が近く、受話口から漏れた清良の甘えた声は、和佳奈の耳にもはっきりと届いた。
和佳奈は無意識に指先を強く握りしめた。
直後、裕康は通話を切り、取り繕うような笑みを向けた。
「急な仕事が入っちゃった。健診、1人で行ってこられるか?」
和佳奈はその稚拙な嘘を暴くこともせず、静かにドアを開けて車を降りた。
身を切るような木枯らしの中、通りかかったタクシーを拾った。
窓の外を流れる街並みを眺めていると、過去の記憶が堰を切ったように胸へ押し寄せてきた。
数年前、和佳奈はひき逃げ事故に遭った。
犯人は車を急発進させて逃走し、厄介事を恐れた通行人も誰も助けようとしなかった。
血の海に倒れて息も絶え絶えだった自分を、救い上げるように抱きとめてくれたのが、通りすがりの裕康だった。
あの日、10歳年上の男に、和佳奈はひと目で恋に落ちた。
幸運なことに、成熟した包容力を持つ裕康もまた、和佳奈を愛してくれた。
1年の交際を経て、2人は周囲の祝福を受けて結婚した。
年上ゆえの余裕なのか、彼には尽きることのない忍耐と優しさがあった。
結婚生活の2年間、一度も喧嘩をしたことはなく、記念日や贈り物を欠かされたこともない。
裕康はどんなときも和佳奈の気持ちを最優先にしてくれた。
――ただ一つ、ベッドの上を除いて。
30を過ぎた男が、どうしてこれほど底知れない体力を持っているのか不思議でならなかった。
幾夜も啜り泣いて許しを乞うたが、裕康は妖しく微笑み、何度も何度も口づけを重ねるばかりだった。
「和佳奈を愛しているからこそこうなるんだ。
たっぷり求めて抱き潰さないと、俺の愛しい和佳奈が赤ちゃんを産んでくれないだろう?」
そうして結婚3年目、和佳奈はようやく新しい命を身籠もった。
*
3日前、父の信太郎が突発性の脳梗塞で倒れた。
病院へ駆けつけた和佳奈の耳に届いたのは、苦しい息の下で裕康の名を呼び続ける父の掠れた声だった。
婿の顔を一目見たいと繰り返し懇願する父。
命が消えゆく間際に愛娘を裕康へ託したいのだと察し、誰もが代わる代わる連絡を試みてくれた。
だが、和佳奈が充電の切れるまで99回も発信し続けたにもかかわらず、裕康に繋がることは最後までなかった。
信太郎は無念を残したまま、息を引き取った。
和佳奈は、夫が本当に仕事で手一杯なのだと信じようとした。
父の葬儀を終えた直後、親友の綾香からあの写真が送られてくるまでは。
自分の夫が、なぜ実母の妹である叔母とパレーシアの街角で抱き合っているのか。
混乱する頭を抱え、和佳奈は立ち入りを固く禁じられていた裕康の書斎へ足を踏み入れた。
その瞬間、全身が凍りついた。
そこにあったのは、すべて清良にまつわる品々だった。
壁一面を埋め尽くす写真、大切に保管されたラブレター、渡されなかった無数のプレゼント、そして今なお更新され続ける分厚い日記。
その日記を開き、和佳奈は残酷な真実を知った。
裕康が生涯で愛した女は、2人しかいない。
1人は、自分。
そしてもう1人は、叔母の清良。
2人は学生時代からの恋人同士で、その交際は10年に及んでいた。
愛し合っていた頃、裕康は彼女のために海を渡り、原生林を抜け、夕陽に染まる雪山で熱い口づけを交わした。
憎しみ合っていた頃は、数億円もの宝石を床に叩きつけて砕き、別れた後もプライドを捨てて海外まで縋りついた。
清良に新しい恋人ができたと知ったときには、胃出血を起こすまで浴びるように酒を呷った。
裕康の今までの人生における喜怒哀楽のすべては、清良のためにあった。
そして和佳奈と結ばれた理由すらも。
破局の後、清良の面影を宿した「身代わり」を欲しただけに過ぎない。
だからこそ、姪である和佳奈に目をつけた。
和佳奈の顔立ちは、清良にあまりにも似ていたからだ。
ひき逃げ事故の現場に居合わせた際も、わざと命がけを装って救い出し、一目惚れするように仕向けた。
夜ごと体を貪り、妊娠へ執着したのも同じ理由。
和佳奈に似た子どもが欲しかったのではない。清良の血と面影を宿した子どもが、どうしても欲しかった。
真実を悟った瞬間、和佳奈の心は粉々に砕け散った。
慈しみも愛も、注がれていた真心さえも、すべて周到に仕組まれた偽り。
最初から最後まで、完璧に欺かれていた。
いくら若くても、過去を清算してからでなければ新しい相手を迎え入れてはならないことくらい分かる。
何より、自分は誰かの身代わりではない。
誰の代替品でもない、和佳奈という1人の人間だ。
出会った最初の1秒から騙し続けてきた男だ。
ならば、お返しにこちらも1度だけ騙してやる。
先ほど、裕康には何も告げなかった。
中身も確かめずに署名した2部の書類。
1部は、離婚届。
そしてもう1部は、人工妊娠中絶の同意書だ。
身代わりとして生きるつもりはない。
心に自分などいない男は、もう要らない。
和佳奈は産婦人科の診察室へ入り、主治医の前へ手術同意書を真っ直ぐ差し出した。
「お願いします。この子を、堕ろしてください」
第2話
それから3時間後、和佳奈は下腹部を押さえながら帰宅した。
丸1日休んだ後、鏡に映る青白い顔を見つめ、震える手で口紅を引いた。
手早く薄化粧を施して顔色を取り繕ったものの、体の奥底から疼く痛みに、背中には冷や汗が滲み続けていた。
ブランケットにくるまってソファに横たわると、屋敷の執事に声をかけた。
「飾り棚のジュエリーやバッグを、すべてオークションに出品してください。売上金はすべて児童養護施設へ寄付します」
ちょうどその時、帰宅した裕康がその言葉を耳にして足を止めた。
「どうして急にそんなものを処分するんだ?」
和佳奈は伏し目がちに視線を逸らした。
「気に入らなくなったから寄付するだけ。お腹の子への徳積みだと思って」
裕康はそれ以上追及せず、歩み寄って和佳奈を抱き寄せた。
「それもいいな。2、3日したらオークションに連れて行ってやるから、好きなものを選べばいい。空っぽになった棚は、2人でまた少しずつ埋めていこう」
子どもをあやすような声を聞きながら、和佳奈は肯定も否定もせず話題を逸らした。
「仕事、終わったの?」
「ああ、片付いたよ。最近ずっと辛い思いをさせて悪かったな。この1週間はずっと家にいて、お前と赤ちゃんのそばにいるから」
そう言って裕康が愛おしそうにお腹へ手を伸ばそうとしたが、和佳奈はその手を咄嗟に遮った。
裕康は手元に視線を落とし、和佳奈のお腹が以前より平らになっているように見えたのか、わずかに眉を寄せた。
訝しんで口を開こうとしたその瞬間、和佳奈のスマートフォンが鳴り響いた。
画面に表示された叔父・浅見賢二(あさみ けんじ)の名を確かめ、和佳奈は通話ボタンを押した。
「和佳奈か?昨日、清良が帰国してな。みんなで本家に集まって食事でもしようという話になったんだが、顔を出せるか?」
「私、少し体調が優れなくて……」
断りの言葉を最後まで口にする前に、裕康が横からスマートフォンを奪い取った。
「和佳奈を連れて、時間通りに伺います」
食事会を待ちきれないとばかりに即答する夫の姿に、和佳奈の胸が鋭く軋んだ。
父が息を引き取ったあの日、どれほど縋るように掛け続けても繋がらなかった99回もの電話が脳裏をよぎった。
――そうか。本当に愛している相手のためなら、この男はどんな機会も逃さない。
妻の都合など顧みず、父親を亡くしたばかりの喪失感など気にも留めない。
ただ自らの欲望と愛に忠実に、清良のもとへ駆けつけたいだけだ。
通話を切った裕康は、和佳奈の強張った表情を見てようやく我に返ったようだった。
冷え切った手を包み込み、取り繕うように言い訳を重ねた。
「気分が塞ぎ込んでいるのは分かっている。だけど、お前にはお腹の赤ちゃんがいるんだから、いつまでも悲しんでいては体に毒だ。実家へ行って家族の顔を見れば、いい気分転換になるだろう?」
和佳奈は唇の端をかすかに歪めただけで、何も言い返さなかった。
*
夜の7時、2人は本家へと到着した。
玄関を入る直前、裕康は綺麗にラッピングされた小箱を和佳奈の手へ握らせた。
「賢二さんから、清良さんとは何年も会っていないと聞いたからな。大人の礼儀として、手土産は欠かせないだろう」
以前の自分なら、なんて気の利く優しい夫なのだろうと感動していたはずだった。
けれど今の和佳奈には、自分の手を介して愛する女へ贈り物を届けたいだけなのだと痛いほど分かった。
その浅ましい思惑を暴くこともせず、和佳奈は賑やかな声の響く大広間へ足を踏み入れた。
足音に気づき、家族と歓談していた清良が振り返った。
視界に入ったのは、和佳奈と、その手を引いて寄り添う裕康の姿だった。
清良は一瞬だけ表情を強張らせ、戸惑いを滲ませながら口を開いた。
「和佳奈……こちらの方は?」
和佳奈は答えず、どう答えるべきかも分からなかった。
裕康もまた沈黙を守った。
見かねた親戚たちが口々に声を上げた。
「清良は3年間も海外にいて式にも出られなかったから、知らなくて無理もないわね。和佳奈の旦那さんよ。ミヤセイグループ社長の宮城裕康さん」
清良の体がかすかに揺れ、瞳の奥に隠しようのない動揺が走った。
だがすぐに完璧な笑みを張り直し、自ら進み出て手を差し伸べた。
「はじめまして」
2人は初対面の他人のように、形式的な社交辞令を交わし合った。
だが、その間に漂う歪な空気に気づいていたのは、和佳奈だけだった。
和佳奈は預かっていた贈り物を清良へ差し出した。
「清良さん、おかえりなさい」
「ありがとう。でも1ヶ月ほど滞在したら、またすぐパレーシアへ戻る予定なのよ」
その言葉を聞いた瞬間、裕康の顔色が一変した。
清良はその変化を気にも留めず、笑みを浮かべて包みを解いた。
中から現れた眩い宝石のネックレスを目にした途端、瞳に歓喜の色が宿った。
「まあ……和佳奈、すごくセンスがいいのね。このネックレス、ずっと前から気になっていたのよ」
2人の視線の交錯を冷ややかに見つめながら、和佳奈は淡々と返した。
「ヒロさんが選んでくれたの。彼のセンスは、昔からずっと素敵だから」
宴席が始まると、裕康は自分の料理にほとんど手をつけず、酒を呷るか和佳奈の小皿へ甲斐甲斐しく料理を取り分けることに終始した。
その様子を見た親戚たちが冷やかすように笑い声を上げた。
「和佳奈ちゃんは本当に幸せ者ねえ。こんなに尽くしてくれる旦那さんをもらって、仲睦まじいこと!」
和佳奈は愛想笑いを浮かべながら、目の前に置かれた2皿分のビーフシチューを見つめた。箸をつける気にはなれなかった。
妊娠してから重いつわりに苦しめられ、肉や脂っこい料理は受け付けなくなっていた。
裕康もそれを知っていたからこそ、ここ1ヶ月は彼女に合わせて野菜中心の食事を共にしてくれていたはずだった。
なのに今夜の夫には、そんな配慮など頭の片隅にもない。
目の前の皿を入れ替えるのに必死だったからだ。
「和佳奈、栄養をつけるために牛肉をしっかり食べろよ」
口先ではもっともらしい言葉を並べながら、裕康は自分の分のビーフシチューを和佳奈の前へ置き、手元にあった魚介料理の皿を奪い取った。
そして自分の分と合わせて2皿まとめて、清良の目の前へ滑り込ませた。
清良は、幼い頃からシーフードが大好物だった。
第3話
食事が終わる頃には、裕康はすっかり泥酔していた。
親戚たちもこの状態のまま帰すわけにはいかないと心配し、本家に泊まっていくよう強く勧めてきた。
和佳奈は使用人を呼び、2人掛かりで夫をゲストルームへ運んだ。
身支度を整えさせ、寝室のメイン照明を落として枕元のスタンドライトだけを薄暗く灯した。
まもなくして、裕康がおぼつかない手つきで薄く目を開け、和佳奈の体を力任せに抱き寄せた。
「清良……戻ってきたのは、俺のためなんだろう?」
和佳奈は全身を強張らせた。
人違いだと告げる気力すら湧かなかった。
深く息を吸い、静かに問い返した。
「……なら、あなたはどうなの?今夜あんなに酔い潰れたのは、誰のため?」
「お前だよ、清良。お前以外にいるわけないだろう。分からないのか?」
分かりきっていた答えだった。
それでも、いざ耳にすると胸を抉られるような激痛が走った。
かつて愛のために胃出血を起こすまで浴びるように酒を呷っていた男が、なぜ自分の前では一滴も口にしない下戸のように振る舞っていたのか。
その理由がようやく腑に落ちた。
酔った勢いで本心を零し、勘づかれるのを恐れていただけだった。
和佳奈はぎゅっと拳を握りしめた。
息が詰まり、裕康の腕を振りほどいた。
洗面所に2時間籠もり、便座に腰を下ろしたまま、乱れた感情をようやく落ち着かせた。
部屋に戻ると、ベッドの上にいたはずの裕康の姿が消えていた。
寝室の扉を静かに開けると、ベランダのライトがちょうど消えたところだった。
足音を忍ばせて近づき、ガラス窓越しに外を窺った。
そこには、並んで立つ裕康と清良の姿があった。
夜の帳が表情を覆い隠していたが、押し殺した低い声ははっきりと耳に届いた。
「昨日はもうエリュシオン州には戻らないって言っていたじゃないか。どうして急に前言を撤回したんだ?」
「あなたこそ、どうして和佳奈と結婚したことを私に黙っていたの?」
清良の平然とした声に、裕康の胸中でくすぶる炎が一気に燃え上がった。
残されていた僅かな理性が瞬く間に崩壊し、清良の手首を乱暴に掴み上げた。
「俺がどうして和佳奈と結婚したのか、お前が一番よく知っているはずだ。あの子はこんなにもお前に似ていて、お前の血を引いている。和佳奈と一緒にいれば、堂々とお前に会えるからだ。
数日前のパレーシアみたいに、建物の下で何10時間も待ち伏せて、物陰から盗み見るような真似をしなくて済むからだ」
――ああ、そうだったのか。パレーシアへ飛んだのは清良のためで、だからこそ1通の電話にも出なかった。
和佳奈の胸が激しく震え、爪が手のひらに深々と食い込んだ。
清良も彼が本気でそんなことを目論んでいたとは思わなかったようで、呆然と呟いた。
「狂ってるわ……」
「ああ、狂ってるさ。お前が一方的に別れを突きつけてきたあの日から、俺はずっと狂い続けてるんだ。お前にそばにいてほしい。たとえお前に似ているだけの身代わりであっても、残りの人生を過去の追憶に浸って生きるには十分すぎる」
行き場のない痛みをぶちまけるような声に、清良も言葉を失って立ち尽くした。
長い沈黙ののち、絞り出すように苦しげな声を漏らした。
「……そんなことをして、和佳奈を何だと思っているの?結婚して2年、あの子はあなたの子供まで身籠もっているのよ。少しも情はなかったの?」
裕康は嘲るように鼻で笑った。
「ただの身代わりだ。どうやって心を動かせっていうんだ?仮に情があったとしても、お前に瓜二つの顔を見つめながら、頭の中でお前のことばかり考えているだけだ。
俺と和佳奈の子供はもうすぐ生まれる。名前だってとっくに決めてあるんだ。『悠良(ゆうら)』、お前の名前と俺の名前を取った。これで俺たちは永遠に一緒だ」
そのすべてを耳にした瞬間、和佳奈の背筋を冷たい戦慄が駆け抜け、堪えきれずに大粒の涙が頬を伝い落ちた。
――悠良。
なんて素晴らしい名前だろう。
目を閉じれば、ベッドの上で貪るように求めてきた夫の姿や、妊娠発覚後に見せていた異様なまでの過保護ぶりが脳裏をよぎった。
和佳奈は唇に血が滲むほど強く噛み締め、喉から漏れ出そうになる絶望の叫びを必死に呑み込んだ。
体から最後の気力が抜け落ち、壁に手を突きながら、おぼつかない足取りでその場を離れた。
2人の言い争う声が次第に遠のく中、寝室の扉が閉まる間際、清良の問いかける声がかすかに聞こえた。
「和佳奈に真実を知られるのが怖くないの?」
「知るはずがない。万が一知ったところで、あんなにも俺に惚れ込んでいるんだ、絶対に俺のもとを去るはずがないさ」
――絶対に、去らない?
和佳奈はすでに平らになった下腹部にそっと手を当て、自嘲するように冷たく口元を緩めた。
去ってみせる。
裕康が築き上げた歪な鳥籠をこの手で粉々に打ち砕き、自由な大空へ羽ばたいてみせる。
二度と、振り返るものか。
その夜、裕康が寝室に戻ってくることはなかった。
夜が明けると同時に、和佳奈は身を起こした。
誰にも声をかけず1人で自宅へ戻り、必要書類を揃えて移住の手続きを進めた。
手続きを一通り終えたところで、清良から電話がかかってきた。
「今日一緒に霊園へ行ってくれないかしら?お父さんにお線香をあげたいし、お姉ちゃんのお墓参りもしたくて」
和佳奈の実母は早くに他界していたため、母方の実家筋とは疎遠になりがちだった。
清良とは5歳しか離れていなかったものの、決して親しい間柄ではない。
だが、亡き両親の供養に行きたいと言われて断る理由もなく、和佳奈は承諾した。
花束を買い求め、霊園の入り口に着くと、すぐ近くに見慣れたスポーツカーが停まっているのが目に入った。
裕康の車だ。
裕康もまた和佳奈の姿に気づき、すぐさま車を降りて駆け寄ってきた。
「お墓参りに来るなら、どうして俺に一声かけてくれなかったんだ?」
第4話
和佳奈は裕康をじっと見つめた。
「真夜中に出て行ったんじゃなかった?私、お墓参りに来るなんて一言も言ってないのに、どうしてここが分かったの?」
裕康は自然な仕草で和佳奈の手を握った。
「昨夜、急に胃の調子が悪くなってな。お前が洗面所にいたから、起こすのも悪いと思って1人で病院へ行ったんだ。今朝戻ったら、清良さんが一緒にお参りに行きたいと言っていると聞いてついてきたんだよ」
――完璧な嘘だ。
和佳奈は短く息を吐いて頷くだけで、それ以上は追及しなかった。
霊園に着き、墓石に並んで刻まれた両親の名を目にした瞬間、和佳奈の胸にツンとした痛みが込み上げた。
この世界で、無条件に自分を愛してくれた2人はもういない。
潤んだ瞳に気づいた清良が歩み寄り、そっと和佳奈の肩に手を添えた。
「ご両親は亡くなってしまったけれど、和佳奈には裕康さんがいるわ。一生大切にしてくれる。もうすぐ赤ちゃんも生まれて、新しい家族ができるじゃない」
裕康の気持ちを代弁するように、清良は確信に満ちた口調で告げた。
裕康もすぐに言葉を重ねた。
「ああ。お前とお腹の子は俺が一生守る。だから、悲しまないでくれ」
その言葉を聞きながら、和佳奈の胸中は冷ややかな感情で満たされていた。
裕康が生涯守ると誓うのは、自分への愛でも夫婦の責任でもない。
もう1人の女のため、そして歪な欲望を満たすためだ。
和佳奈は渦巻く感情を押し殺し、両親の墓石を見据えた。
「ええ……私、きっと新しい家庭を築いてみせる」
――そこに、裕康の居場所など二度とないけれど。
*
墓参りを終える頃には、小雨がぱらつき始めていた。
後部座席に清良と和佳奈が並んで座り、裕康が車を走らせた。
重苦しい沈黙に耐えかねたのか、清良が口を開いた。
「南ノ町に新しく洋食レストランができたらしいの。お昼に寄ってみない?」
裕康は即座にウインカーを出し、ハンドルを切った。
「オーナーがイストリア人で、本格的な味を出すらしいよ」
「そうなの?私がパレーシアで食べたピザなんてね……」
2人はそこから堰を切ったように会話を弾ませた。
洋食の話題から北エリュシオン州の街並み、最近の出来事まで、一方が口を開けばもう一方が間髪入れずに言葉を返した。
阿吽の呼吸は、長年連れ添った恋人同士そのものだった。
和佳奈は自嘲するように唇を歪めた。
実際に2人は10年間を共に過ごしてきた。
訪れた土地、捧げ合った時間、知り尽くした過去。
どれをとっても、身代わりに過ぎない自分など敵うはずがない。
*
レストランへ到着すると、裕康は無意識にメニューを清良へ差し出した。
清良は受け取ろうとしたものの、ふと気づいたように和佳奈へ手渡した。
「妊婦さんなら食べられないものも多いでしょう?和佳奈が選びなさい」
和佳奈が適当に注文を済ませ、料理が運ばれてくると、裕康は見るなり眉をひそめた。
「これじゃ駄目だ、どれも食べられないじゃないか。医師からの注意を忘れたのか?」
清良も不思議そうに和佳奈のお腹を見つめ、目を丸くした。
「和佳奈、もうすぐ妊娠3ヶ月になるんじゃなかった?その割にお腹が目立たない気がするけれど……」
裕康は弾かれたように立ち上がり、確かめようと身を乗り出した。
その拍子に、料理を運んでいた店員と激しく衝突した。
ワゴンが派手に倒れ、載っていた熱々の料理とスープがすべてぶちまけられた。
裕康は咄嗟に清良の前へ立ちはだかり、飛散するスープや食器から彼女を庇った。
――だが、和佳奈を守る者などいない。
煮えたぎるようなスープが脚一面に降り注ぎ、皮膚が瞬く間に赤くただれて水膨れができた。
激痛に顔が歪み、額から脂汗が噴き出した。
立ち上る湯気の中、テーブルクロスを強く握り締めて視線を上げると、清良を抱きかかえて駆け去っていく裕康の背中が見えた。
その光景に、和佳奈の心は音を立てて冷え切っていった。
騒然とする店内から、青ざめた店員に支えられてなんとか外へ出た。
エントランスを出た直後、和佳奈の目に飛び込んできたのは、激しく言い争う清良と裕康の姿だった。
「私は大丈夫だって言ってるでしょ。今すぐ戻って和佳奈を看てあげて」
「手がこんなに赤くなっているのに、強がるな!先にお前を病院へ連れて行ってから、和佳奈を迎えに戻ればいい。
どうして意地を張るんだ。さっきお前だって俺が火傷しないか心配していただろう?本当は、今でも俺を想ってくれているんじゃないのか!?」
「想っていようがいまいが関係ないわ。私たちはとっくに別れたのよ。裕康は和佳奈と結婚して、あの子はあなたの子を宿しているの」
叫ぶような清良の悲痛な声に、裕康の目元が真っ赤に染まった。
「分かっているだろう……俺の心の中で、和佳奈がお前より重くなることなんて永遠にない!」
清良は息を呑んで立ち尽くし、言い返そうと顔を上げた。
次の瞬間、エントランスに佇む和佳奈の姿を捉えた。
清良の瞳が見開かれ、動揺に声が震えた。
「和佳奈……どうして、外に……!?」
第5話
裕康の心臓が激しく跳ね上がった。
勢いよく振り返ると、血の気を失った顔のまま和佳奈が倒れ込んでいった。
裕康は弾かれたように駆け寄り、ぐったりとした妻を抱き上げると、脇目も振らず病院へ車を走らせた。
騒然とした空気の中、和佳奈は鋭い痛みに引き戻されるように薄くまぶたを開けた。
視界の端で、裕康が必死の形相で医師に頭を下げていた。
「妻は妊婦なんです。妊娠3ヶ月に入ったところなので、使う薬にはどうか細心の注意を払ってください」
処置室へ運び込まれ、服をめくった看護師が、平らな下腹部を目にして小さく声を上げた。
「3ヶ月……?何かの間違いでしょうか。とても妊娠しているようには見えませんが……」
不審そうに首を傾げ、カルテを確認しようとする看護師を、和佳奈は激痛を堪えて必死に呼び止めた。
「看護師さん……その、流産してしまって。夫には直接伝えたいので……どうか内緒にしていただけませんか」
詳しい事情は分からずとも、流産の重さは想像がつくのだろう。看護師はそれ以上追及せず、和佳奈の願いを受け入れてくれた。
麻酔を使えない状態での傷口の洗浄と処置は、気を失いかけるほどの激痛だった。
焼けただれた皮膚から灼熱感が走り、息を吸うことすら苦行に変わった。
全身から冷や汗が噴き出し、1分1秒が永遠のような拷問に思えた。
ようやく処置が終わり、和佳奈は病室のベッドへ移された。
付き添っていた裕康は痛ましそうに寄り添い、何度も詫びの言葉を繰り返した。
「こんなにひどい火傷を負っていたなら、どうして声をかけてくれなかったんだ」
奥歯を強く噛み締めすぎて、口の中に鉄の味が広がっていた。脚の上でずっと炎が燃え盛っているかのようだった。
全身の熱が上がっていく中、和佳奈は乾いた唇から辛うじて声を絞り出した。
「ヒロさんが……あまりにも早く、行ってしまったから」
「俺が悪かった……本当にすまない」
裕康の瞳に濃い罪悪感が滲んだ。
和佳奈が固く握りしめていた拳の中へ、自分の手をそっと滑り込ませた。
彼女の爪に皮膚を突き破られ、手の甲から一筋の血が伝い落ちた。
赤く滲む血を見つめながら、和佳奈の意識は急速に暗闇へと沈み、深い眠りへ落ちていった。
*
再び目を覚ましたときには、すでに深夜の静寂が病室を包んでいた。
ぼんやりと目を開けると、薄暗がりの中に清良の後ろ姿が浮かび上がっていた。
「あなただって火傷を負っているじゃない。今すぐ手当てを受けてきて。和佳奈の看病は私が代わるから」
「駄目だ。和佳奈が目を覚ましたとき、そばに俺がいなかったら心細がるだろう。手当てなら明日でいい」
清良の声が苛立ちを孕んで一段と高くなった。
「今すぐ行きなさいって言ってるの!自分の体を粗末にするのはやめて!」
その語気を聞いた瞬間、裕康の険しかった眉間がふっと緩んだ。
すかさず清良の手首を強く握りしめた。
「清良……もう意地を張るなよ。お前の心の中に、ずっと俺がいることは分かっている。頼むから認めてくれ。お前さえ頷いてくれるなら、今すぐすべてを捨てて、お前とやり直す」
清良は感情的になりすぎたことにハッとし、慌てて手を振り払った。
狼狽する表情を目にして、裕康は堪えきれずに口元を綻ばせた。
「分かった、もう追い詰めたりしない。お前が首を縦に振ってくれるまで、いくらでも待つよ。お前の言う通りにする。今から傷の手当てに行ってくる」
そう言い残し、裕康は軽やかな足取りで病室を後にした。
共にしてきた3年間、和佳奈の記憶にある裕康は、いついかなる時もすべてを完璧に掌握する上位者だった。
和佳奈がどれほど腹を立てようが、どんな悪ふざけをしようが、常に子どもをあやすような大人の包容力で微笑み返してきた。
理性的で、成熟していて、冷徹なまでに冷静。
まるで隙のない仮面を貼り付けているかのように、生々しい素顔を決して見せなかった。
夫がそういう人間なのだと思い込んでいた。
まさか、感情を制御できなくなる瞬間があるなど思いもしなかった。
清良の冷淡な言葉一つに激しく取り乱し、わずかな気遣いを感じ取っただけで破顔した。まるで初恋に浮かれる少年のように、愛する女の言葉へ無条件に従ってみせた。
和佳奈の知らない裕康が、そこにいた。
あまりの落差に呆然と見つめていると、我に返った清良と視線が真正面からぶつかった。
瞳に走った隠しようのない動揺を逃さず捉え、和佳奈は静かに口を開いた。
「清良さん……ヒロさんは?」
先ほどのやり取りを聞かれていなかったと察し、清良はあからさまに安堵の息を漏らした。
「怪我の手当てをしに行ったわ。どこか痛むところはある?遠慮しないで何でも言ってね」
皮膚を炙るような激痛が神経を苛み続けていた。
だが和佳奈は表情に出さず、かすかに首を横に振った。
「大丈夫。清良さんも、もう休んでください」
清良はその場を立ち去ろうとはせず、グラスに水を注いで差し出してきた。
形式的な気遣いの言葉を並べた後、顔色を窺うように問いかけてきた。
「和佳奈……昨日、倒れる前に……何か聞こえたかしら?」
グラスを受け取ろうとした和佳奈の指先が一瞬だけ止まった。
だがすぐに、探るような視線をまっすぐに見据え返した。
「いいえ、何も」
表情一つ変えずに、和佳奈は淡々と嘘をついた。
清良の疑念を拭い去るため。
そして何より、あの残酷な言葉の数々を記憶の底へ葬り去るよう、自分自身に言い聞かせるために。
どうせあと少しすれば、自分は2人の人生から完全に消え去るのだから。
第6話
10日間の入院生活を経て、和佳奈の火傷は綺麗にかさぶたになっていた。
その間、裕康は毎日病室に詰め切り、水を用意し、医師の指示を手帳へ几帳面に書き留めるなど、至れり尽くせりの看病を続けてくれた。
だが、妻が快方へ向かう一方で、看病疲れの出た裕康が体調を崩し、何日も高熱を出して寝込んでしまった。
一家に2人の病人が出たと聞きつけ、見かねた清良が手伝いに駆けつけた。
2人を車で迎えに行って自宅へ送り届けると、お湯を沸かし、和佳奈の患部に薬を塗り直すなど、家中を忙しなく立ち働いた。
「しっかり養生するのよ。あとでサプリメントを持ってくるから、ちゃんと飲んでね」
和佳奈は素直に頷いた。
運ばれてきた妊婦用サプリメントと1杯の白湯。
和佳奈は白湯だけを喉に流し込み、シートから押し出した錠剤はすべてトイレへ放り込んで流した。
数日休んでようやく足をついて歩けるようになり、和佳奈は空になったグラスを片付けがてら、陽の光を浴びようと部屋を出た。
書斎の前を通りかかった瞬間、中から物が激しく砕け散る高い音が響いた。
わずかに開いた扉の隙間から覗き込むと、そこに清良の姿があった。
清良は壁一面の写真を呆然と見つめ、だらりと垂らした両手を震わせながら、複雑な表情を浮かべていた。
我に返った清良は、壁の写真を引き剥がし、飾り棚の品々を次々と段ボール箱へ投げ入れ始めた。
部屋から出てくる気配を察し、和佳奈は慌てて廊下の突き当たりにあるバルコニーの物陰へ身を隠した。
まもなく、清良が庭のゴミ集積所へ現れた。
プレゼントを丸ごとゴミ箱へ投げ込み、写真やラブレター、あの分厚い日記帳を容赦なく破り捨てた。
すべてを終えると、スマートフォンを取り出して裕康を呼び出した。
2人はゴミ箱の前で激しい口論を始めた。
距離があったため、和佳奈の耳には最後の数言しか届かなかったが、その内容はあまりにも鮮明だった。
「こんなもの、書斎に置いておくべきじゃないわ。もし何かの拍子に和佳奈が入ってきて、これを見たらどうするつもりなの」
「あいつは書斎の鍵を持っていないし、俺の許可なく入るような真似もしない」
「どうしてそう言い切れるのよ。もし入ってしまったらどうするの?あなたを一途に想っているあの子が、これを見たらどれだけ傷つくか考えたことはあるの」
「傷ついたから何だっていうんだ。俺が最初から愛しているのはお前だけだという事実が、それで変わるとでも思うのか?他人のことなんてどうでもいい。
聞きたいんだ。お前の心の中に、まだ俺はいるのか?一言でも『いる』と言ってくれるなら、俺は今すぐ和佳奈と離婚する」
その言葉を聞いた瞬間、清良の顔色が一変した。
取り乱した様子で通りかかったタクシーを拾い、逃げるように走り去っていった。
物別れに終わった2人の背中を見届け、和佳奈はそっと胸元に手を当てた。
心臓は早鐘を打ち、かすかに痺れを帯びていたが、不思議と、以前ほどの激痛は走らなかった。
心の傷も少しずつ癒えつつあるらしかった。
――よかった。
裕康はゴミ箱を漁り、清良に捨てられた品々を必死にかき集めて書斎へ戻っていった。
扉に鍵をかけ、3日3晩、一度も部屋から出てこなかった。
引き裂かれた紙屑を1枚1枚繋ぎ合わせているのだと察した和佳奈は、邪魔もせず、ただ決まった時間に食事を運ばせるだけにした。
足が不自由なく動くようになると、和佳奈は友人と約束を取り付け、食事会でささやかな時間を楽しんだ。
会計を済ませようと店内で一番大きな個室の前を通りかかったとき、聞き覚えのある名前が耳に飛び込んできた。
「裕康、いつも忙しそうだから同窓会には来られないと思って誘わなかったんだよ。悪かったな」
「何言ってるんだよ。清良が来てるのに、裕康が欠席するわけないだろ。当時の2人の交際なんて、S大全体を揺るがすくらい有名だったじゃないか」
「だな。当時、裕康がグラウンド一面に何万本もの薔薇を敷き詰めて告白したところなんて、俺は現場でバッチリ見てたんだから。あいつが清良のために作ったラブソングだって、今でも歌えるくらいだぜ……」
和佳奈は足を止め、その声に耳を傾けた。
ふと、スーツ姿の裕康がギターを爪弾きながら愛を囁く姿が浮かんだ。
けれど、どう想像してみても強烈な違和感しか湧いてこなかった。
少し考えて、和佳奈はようやくその理由に思い至った。
あの部屋で語られているのは、20歳だった頃の裕康だ。
そして、彼が熱烈に愛していたのは清良だ。
自分とは何の関係もない、遠い世界の出来事だ。
――違和感を覚えるのも、当然だった。
第7話
和佳奈は声もなく自嘲の笑みを浮かべ、これ以上聞き耳を立てる気も失せた。
背を向けたその瞬間、化粧室から出てきた清良と鉢合わせてしまった。
和佳奈は反射的に踵を返し、階段の方へ足早に向かおうとした。
数歩も進まないうちに、背後から清良の戸惑う声が降ってきた。
「和佳奈……?」
和佳奈は取り合わず、ただ歩調を速めた。
曲がり角に差し掛かったところで、清良が追いつき手首を掴んできた。
こんな場所で顔を突き合わせたくない和佳奈は、そのまま立ち去ろうとした。
だが清良は頑なに手を放さず、焦りを滲ませた声で縋りついてきた。
「何か誤解しているんじゃない?お願い、私の話を聞いて」
もみ合う中、和佳奈は力任せにその手を振り払った。
しかし勢い余ってバランスを崩し、階段から足を踏み外しそうになった。
清良の顔色がさっと変わり、咄嗟に和佳奈の体をぐっと引き寄せた。
手すりにすがりつき、和佳奈はどうにか体勢を立て直した。
だがその反動で清良はバランスを失い、階段を転がり落ちていった。
全身を強打し、広がる血だまりの中にぐったりと倒れ伏した。
頭の中で激しい轟音が鳴り響き、和佳奈は清良を助け起こそうと慌てて階段を駆け下りた。
手を伸ばした瞬間、横から凄まじい衝撃で乱暴に突き飛ばされた。
壁の角に額をしこたま打ちつけ、溢れ出した血が瞬く間に顔半分を赤く染めていった。
激痛に息を呑み、必死で目を開けると、そこには人を殺しかねないほど険悪な裕康の眼差しがあった。
裕康はギリリと奥歯を噛み締め、憎悪の籠もった言葉を吐き捨てると、清良を抱きかかえて狂ったように駆け出していった。
「万が一清良に何かあったら、絶対に10倍にして償わせてやる!」
慌ただしい足音が次第に遠ざかっていった。
音すら届かなくなり、和佳奈の視界は滲んで輪郭を失っていく。
頭の奥の神経が引き千切られるように脈打っていた。
滴る血が床に広がり、意識が急速に遠のいていく。
果てしない闇に呑み込まれ、和佳奈は静かに意識を手放した。
どれほどの時間が経っただろうか。和佳奈がおぼろげに目を開けると、医師が心底安堵したように大きく息を吐き出す姿が目に入った。
「ご自身の生命力に救われましたね。一歩間違えれば植物状態になって、二度と目を覚まさないところでしたよ」
医師に短く礼を告げ、和佳奈はサイドテーブルの上で震え続けるスマートフォンを手に取った。
通話ボタンを押すと、受話口から裕康の焦燥に満ちた声が飛び込んできた。
「和佳奈、どこにいるんだ!?」
長い沈黙の後、和佳奈は現在いる病院名と病室の番号だけを淡々と伝えた。
10分も経たないうちに、病室の扉が乱暴に開け放たれた。
裕康は取り乱した様子で駆け込んできて、真っ先に体を気遣う言葉を並べ立てた。
「怪我はひどいのか?お腹の赤ちゃんは無事なのか?清良さんを突き落としたんだと思い込んで、ついカッとなってしまって……
すまない、すべて俺が悪かった。事情も確かめずに手を出して……頼むから許してくれ」
その口ぶりから、清良が意識を取り戻して事の真相を説明したのだと察しがついた。
でなければ、これほど居たたまれないような罪悪感を顔に浮かべるはずがない。
和佳奈は視線を落とし、掠れた弱々しい声で答えた。
「平気よ。2、3日安静にしていれば治るって医師に言われたから」
裕康はその言葉にお腹の子どもの無事も含まれていると早合点し、胸を撫で下ろした。
ベッド脇にしゃがみ込み、無事を確かめるように和佳奈のお腹へ手を伸ばそうとした。
だが、和佳奈の放った一言が、その動きをぴたりと止めた。
「ヒロさんと清良さん、大学の同級生だったの?」
裕康の手が空中で硬直した。
「……いや。大学が同じだっただけだ。学年は俺が上だが、学部は一緒だった。どうして急にそんなことを?」
縮こまるように引っ込められた夫の手を見つめ、和佳奈はまつ毛をかすかに震わせながら、淡々と口にした。
「別に。同じ同窓会に参加しているのを見かけただけ」
裕康の喉仏がごくりと上下し、ぎこちなく話題を逸らした。
「腹が減っているだろう。朝食を買ってくる」
逃げるように立ち去る背中を見送りながら、和佳奈はスマートフォンのカレンダーを開き、残された日数を指折り数えた。
あと10日もすれば、国外移住の手続きがすべて完了する。
嘘で塗り固められたこの結婚生活から、ようやく抜け出せる。
第8話
病院で過ごした1週間余りの間、裕康は前回の入院時とは打って変わり、2、3日に1度ふらりと顔を出す程度だった。
清良の看病と掛け持ちして奔走していると分かっていた和佳奈は、一切の不満を表に出さなかった。
退院の日、裕康は車で迎えに来てくれたものの、自宅の玄関前まで送り届けると慌ただしく去っていった。
遠ざかるテールランプを見送った直後、和佳奈のスマートフォンに移住手続き完了の通知が届いた。
役所で必要書類を受け取り、そのまま窓口で海外転出届を提出して、住民票と在籍記録を完全に抹消した。
すべての手続きを終えて屋敷へ戻ると、和佳奈は淡々と身の回りの荷造りを始めた。
片付けの途中で、かつて揃えたペアグッズや思い出の写真、生まれてくるはずだった子どものベビー服や玩具が出てきたが、何の躊躇もなくすべてゴミ袋へ放り込んだ。
ゴミ集積所に捨て終えたとき、裕康がトランクいっぱいに高級ブランドのバッグを詰め込んで帰宅した。
足早に駆け寄り、得意げに見せようとした裕康だったが、ゴミ箱の中に散らばる見覚えのある品々を目にした瞬間、表情を強張らせた。
「まだ怒っているのか?だからこんなものを全部捨てたのか?ほら、バッグをたくさん買ってきたんだ。これまでのことは全部水に流して、仲直りしよう」
そんなに簡単に忘れられるなら、ここまで1人で苦しむこともなかった。
山のように積み上げられた華やかなギフトボックスを見つめ、和佳奈は疲れ切った声で呟いた。
「怒ってなんていないわ。プレゼントも、もう要らない」
張り詰めた冷ややかな態度に、裕康は焦ったように和佳奈の手首を握りしめた。
「最近のお前、どうかしているよ。俺に悪いところがあるなら言ってくれ。話し合って解決しよう」
和佳奈は返す言葉もなく、ただ冷たい沈黙を貫いた。
裕康がさらに眉を険しく寄せ、問い詰めようと口を開きかけたその時、和佳奈のスマートフォンが甲高い着信音を響かせた。
「和佳奈、今すぐ病院へ来てくれ!清良が急に倒れて……検査を受けたら、急性腎不全だって」
スピーカーから漏れた報せを聞いた瞬間、隣にいた裕康の理性が音を立てて弾け飛んだ。
顔から血の気が引き、長身が激しく震え出した。
正気を失ってふらふらと車のキーに手を伸ばす夫を見かね、和佳奈はキーを奪い取り、自らハンドルを握って病院へ急行した。
*
病棟へ駆けつけると、浅見家の親族たちが詰めかけ、適合する腎臓ドナーを探すための血液検査を受けている最中だった。
カルテを挟んで向き合う医師たちの間で、重々しい議論が交わされていた。
「29歳という若さで、ここまで急速に腎不全が進行するとは……親族からのドナー提供が望めない以上、型が完全に適合する移植先を見出すのは極めて困難と言わざるを得ません」
その言葉に裕康の指先が激しく痙攣し、額に青筋が浮かんだ。
ベッドで意識を失い、青ざめて横たわる清良を見つめた後、裕康は弾かれたように振り返って和佳奈の両肩を乱暴に掴み上げた。瞳には剥き出しの恐怖と焦燥が渦巻いていた。
「和佳奈、お前も検査を受けてくれ」
その場にいた賢二が目を見張り、血相を変えて割って入った。
「馬鹿なことを言うな!和佳奈は今お腹に子どもがいるんだぞ。そんな体に検査を受けさせられるわけがないだろう!」
だが裕康は取り乱したまま、頑なに和佳奈を検査室へ引きずっていこうとした。
その狂気に耐えかね、和佳奈は力任せに手を振り払うと、顔を上げて夫をまっすぐに見据えた。
「……もし私の型が適合したら、この子はどうするの?」
裕康の頭は真っ白に焼き切れ、喉の奥から本音が零れ落ちた。
「人命が最優先だろう。和佳奈はまだ若いんだから、子どもならまたいくらでも作れる!あの人は和佳奈の叔母さんで、亡くなったお母さんの妹なんだぞ!見殺しにするつもりか」
その言葉を聞いた途端、和佳奈の目頭にツンとした熱い痛みが込み上げた。
けれどすぐに、俯いて声もなく自嘲の笑みを浮かべた。
――あらかじめ、この子を堕ろしておいて本当に良かった。
和佳奈はそれ以上何も言わず、踵を返して検査室へ足を踏み入れた。
目の前の男が愛してやまない人を救うためではない。
叔母を救うために。
第9話
3日後、ドナー適合検査の結果が出た。
悪い知らせは、浅見家の親族からは誰一人として適合者が出なかったこと。
そして良い知らせは――
適合する腎臓の提供者が見つかり、相手側も提供に合意したことだった。
検査結果の通知を受けた和佳奈は、裕康のスマートフォンへ電話をかけた。
しかし、コール音が虚しく響くだけで応答はなかった。
ここ数日、裕康が適合ドナーを探すために世界中を手配し、不眠不休で奔走していたことを知っていた和佳奈は、自らグループ本社の社長室へと足を運んだ。
オフィスの扉の前に辿り着いた瞬間、中から切迫した男たちの声が漏れ聞こえてきた。
「裕康、本気で清良に自分の腎臓を提供するつもりなのか!?今のお前は清良の姪と結婚して、和佳奈はお前の子どもを身籠もっているんだぞ。もう過去は断ち切って、目の前の家庭を大切にしろ!」
「そうだぞ、清良のためにそこまで身を削る価値が本当にあるのか?腎臓を1つ摘出した後、どんな後遺症やリスクが残るか分かっているのか?和佳奈のことは考えないのか?もうすぐ生まれてくる我が子はどうするんだ!」
――清良に腎臓を提供するドナーとは、裕康のことだったのか。
和佳奈は頭が真っ白になり、思考が完全に停止した。
「これ以上説得するな。腎臓は絶対に提供する。腎臓どころか、俺の心臓だろうと、清良を救うためなら喜んで差し出すさ。
和佳奈にはこの件を一切知らせるつもりはない。お前たちも口裏を合わせてくれ。エリュシオン州の大型プロジェクトにかかりきりだとでも言っておけばいい」
扉をノックしようと持ち上げていた和佳奈の指先が、残酷な言葉に打ちのめされて力なく下りた。
――裕康、あなたって……本当にどこまでも一途で情熱的な男なのね。
安心していいわ。
私は綺麗さっぱり身を引いて、2人の永遠の愛を祝福してあげるから。
和佳奈は深く息を吸い込み、音も立てずに背を向けて立ち去った。
屋敷へ戻った和佳奈は、ラスカリア行きの航空券を予約した。
*
翌朝、早くに目を覚ました。
移住手続きはすでに完了しており、今日は離婚届を提出しに行く予定の日だった。
タクシーで役所へ向かい、手早く手続きを済ませると、窓口で離婚届受理証明書を受け取った。
それから上品なギフトボックスを買い求め、その中に離婚届受理証明書と、あの中絶手術同意書を丁重に収めた。
その箱を抱え、スーツケースを携えて病院へと向かった。
VIP病棟のフロアに降り立つと、ガラス越しに病室の清良を見つめる裕康の後ろ姿があった。
その瞳には、笑み、涙、苦痛、そして底知れぬ無償の愛が複雑に入り混じっていた。
和佳奈は夫の背後に立ち、その姿をじっと見つめてから掠れた声で呼びかけた。
「手術、何時から始まるの?」
裕康が振り返り、和佳奈の姿を認めると、先ほどまでの激しい感情は跡形もなく消え去り、いつもの穏やかな笑みを顔に貼り付けた。
「医師の話では3時間後だ。ただ、俺はこれから急な出張に出なきゃならなくてね。戻るのは1ヶ月後くらいになる。和佳奈、こんな大事な時にそばにいられなくて本当にすまない」
今回もまた、和佳奈はその嘘を暴こうとはしなかった。
ただ極めて平然とした声で、一言だけ返した。
「いいのよ、ヒロさん。私、慣れるから」
「慣れるって、何を?」
裕康は言葉の真意を測りかね、訝しげに問い返した。
和佳奈は答えず、心の中で静かに呟いた。
――あなたが私を愛してくれないことにも、蔑ろにされることにも。そして何より、あなたのいない人生に慣れるのよ。
返答を待つ間もなく、医師からの着信が裕康の端末に届いた。
裕康は通話に応じながらエレベーターホールへ歩き出し、和佳奈は呼び止めて手元のギフトボックスを差し出した。
「あと半月でヒロさんの誕生日でしょう?お誕生日のプレゼントよ」
裕康は中身を確認することもなく、傍らに控えていた秘書へ無造作に手渡した。
「じゃあ、誕生日当日に開けさせてもらうよ」
和佳奈は何も言わず、遠ざかる夫の背中を見送った。
そして、踵を返した。
裕康が生体腎移植のため手術室へ運び込まれる頃、和佳奈はスーツケースを引いて空港へと向かっていた。
麻酔が打たれ執刀が始まろうとしている時、和佳奈は搭乗ロビーのベンチに座り、すべてのSNSアカウントや写真アルバムを完全に消去した。
手術が無事に終了する頃、和佳奈の乗った旅客機はゆっくりと滑走路を離陸した。
窓の外に広がる一面の白い雲海を見つめ、和佳奈の唇の端が静かに弧を描いた。
――ヒロさん。これからはもう、どれだけ遠く離れようと、2度と会うことはないわ。